采蘋が失踪した後、玄機の態度は一変して、やや文字を識る士人が来て詩を乞《こ》い書を求めると、それを留《とど》めて茶を供し、笑語※[#「日/咎」、第3水準1−85−32]《しょうごひかげ》を移すことがある。一たび※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]待《かんたい》せられたものは、友を誘《いざな》って再び来る。玄機が客《かく》を好むと云う風聞は、幾《いくばく》もなくして長安人士の間に伝わった。もう酒を載せて尋ねても、逐われる虞《おそれ》はなくなったのである。
これに反して徒《いたずら》に美人の名に誘われて、目に丁字《ていじ》なしと云う輩《やから》が来ると、玄機は毫《ごう》も仮借せずに、これに侮辱を加えて逐い出してしまう。熟客《じゅっかく》と共に来た無学の貴介子弟《きかいしてい》などは、幸《さいわい》にして謾罵《まんば》を免れることが出来ても、坐客があるいは句を聯《つら》ねあるいは曲を度する間にあって、自《みずか》ら視《み》て欠然たる処から、独り窃《ひそか》に席を逃れて帰るのである。
――――――――――――――――――――
客と共に謔浪《ぎゃくろう》した玄機は、客の散じた後に、怏々《おうおう》として楽まない。夜が更けても眠らずに、目に涙を湛《たた》えている。そう云う夜旅中の温に寄せる詩を作ったことがある。
[#ここから5字下げ]
寄飛卿《ひけいによす》
[#ここから2字下げ]
※[#「土へん+皆」、205−11]砌乱蛩鳴《かいぜいらんきようなき》。 庭柯烟露清《ていかえんろきよし》。
月中隣楽響《げつちゆうりんがくひゞき》。 楼上遠山明《ろうじやうゑんざんあきらかなり》。
珍簟涼風到《ちんてんにりやうふういたり》。 瑶琴寄恨生《えうきんにきこんうまる》。
※[#「禾+(尤/山)」、第3水準1−47−84]君懶書札《けいくんしよさつにものうし》。 底物慰秋情《なにごとぞしうじやうをなぐさめん》。
[#ここで字下げ終わり]
玄機は詩筒を発した後、日夜温の書の来《きた》るのを待った。さて日を経て温の書が来ると、玄機は失望したように見えた。これは温の書の罪ではない。玄機は求むる所のものがあって、自らその何物なるかを知らぬのである。
ある夜玄機は例の如く、燈《ともしび》の下《もと》に眉を蹙《ひそ》めて沈思していたが、漸《ようや》く不安になって席を起ち、あちこち室内を歩いて、机の上の物を取っては、また直《すぐ》に放下しなどしていた。やや久しゅうして後、玄機は紙を展《の》べて詩を書いた。それは楽人|陳某《ちんぼう》に寄せる詩であった。陳某は十日ばかり前に、二三人の貴公子と共にただ一度玄機の所に来たのである。体格が雄偉で、面貌《めんぼう》の柔和な少年で、多く語らずに、始終微笑を帯びて玄機の挙止を凝視していた。年は玄機より少《わか》いのである。
[#ここから5字下げ]
感懐寄人《かんくわいひとによす》
[#ここから2字下げ]
恨寄朱絃上《うらみをしゆげんのうへによせ》。 含情意不任《じやうをふくめどもいまかせず》。 早知雲雨会《はやくもしるうんうのくわいするを》。
未起※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]蘭心《いまだおこさずけいらんのこゝろ》。 灼々桃兼李《しやく/\たるもゝとすもゝ》。 無妨国士尋《こくしのたづぬるをさまたぐるなし》。
蒼々松与桂《さう/\たるまつとかつら》。 仍羨世人欽《なほうらやむよのひとのあふぐを》。 月色庭階浄《げつしよくていかいにきよく》。
歌声竹院深《かせいちくゐんにふかし》。 門前紅葉地《もんぜんこうえふのち》。 不掃待知音《はらはずちいんをまつ》。
[#ここで字下げ終わり]
陳は翌日詩を得て、直《ただち》に咸宜観に来た。玄機は人を屏《しりぞ》けて引見し、僮僕に客を謝することを命じた。玄機の書斎からはただ微《かす》かに低語の声が聞えるのみであった。初夜を過ぎて陳は辞し去った。これからは陳は姓名を通ぜずに玄機の書斎に入ることになり、玄機は陳を迎える度に客を謝することになった。
――――――――――――――――――――
陳の玄機を訪《と》うことが頻《しきり》なので、客は多く卻《しりぞ》けられるようになった。書を索《もと》めるものは、ただ金を贈って書を得るだけで、満足しなくてはならぬことになったのである。
一月ばかり後に、玄機は僮僕に暇《いとま》を遣《や》って、老婢《ろうひ》一人を使うことにした。この醜悪な、いつも不機嫌な媼《おうな》はほとんど人に物を言うこともないので、観内の状況は世間に知られることが少く、玄機と陳とは余り人に煩聒《はんかつ》せられずにいることが出来た。
陳は時々旅行することがある。玄機はそう云う時にも客を迎えずに、
前へ
次へ
全8ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング