れと同時に詩名を求める念が漸《ようや》く増長した。
李に聘せられる前の事である。ある日玄機は崇真観《しゅうしんかん》に往って、南楼に状元《じょうげん》以下の進士等が名を題したのを見て、慨然として詩を賦《ふ》した。
[#ここから3字下げ]
遊崇真観南楼《しゆうしんくわんのなんろうにあそび》。覩新及第題名処《しんきふだいのなをだいせしところをみる》。
[#ここから2字下げ]
雲峯満目放春晴《うんぽうまんもくしゆんせいをはなち》。 歴々銀鈎指下生《れきれきたるぎんこうかせいをさす》。
自恨羅衣掩詩句《みづからうらむらいのしくをおほふを》。 挙頭空羨榜中名《かうべをあげてむなしくばうちゆうのなをうらやむ》。
[#ここで字下げ終わり]
玄機が女子の形骸《けいがい》を以て、男子の心情を有していたことは、この詩を見ても推知することが出来る。しかしその形骸が女子であるから、吉士《きっし》を懐《おも》うの情がないことはない。ただそれは蔓草《つるくさ》が木の幹に纏《まと》い附こうとするような心であって、房帷《ぼうい》の欲ではない。玄機は彼があったから、李の聘に応じたのである。此《これ》がなかったから、林亭の夜は索莫《さくばく》であったのである。
既にして玄機は咸宜観に入った。李が別に臨んで、衣食に窮せぬだけの財を餽《おく》ったので、玄機は安んじて観内で暮らすことが出来た。趙が道書を授けると、玄機は喜んでこれを読んだ。この女のためには経《けい》を講じ史を読むのは、家常の茶飯であるから、道家の言が却《かえ》ってその新を趁《お》い奇を求める心を悦《よろこ》ばしめたのである。
当時道家には中気真術と云うものを行う習《ならい》があった。毎月|朔望《さくぼう》の二度、予め三日の斎《ものいみ》をして、所謂《いわゆる》四目四鼻孔|云々《うんぬん》の法を修するのである。玄機は※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]《のが》るべからざる規律の下《もと》にこれを修すること一年余にして忽然《こつぜん》悟入する所があった。玄機は真に女子になって、李の林亭にいた日に知らなかった事を知った。これが咸通二年の春の事である。
――――――――――――――――――――
玄機は共に修行する女道士中のやや文字ある一人と親しくなって、これと寝食を同じゅうし、これに心胸を披瀝《ひれき》した。この女は名を采蘋《さいひん》と云った。ある日玄機が采蘋に書いて遣《や》った詩がある。
[#ここから5字下げ]
贈隣女《りんぢよにおくる》
[#ここから2字下げ]
羞日遮羅袖《ひをさけてらしうもてさへぎる》。 愁春懶起粧《はるをうれひてきしやうするにものうし》。
易求無価宝《もとめやすきはあたひなきたから》。 難得有心郎《えがたきはこゝろあるらう》。
枕上潜垂涙《ちんじやうひそかになみだをながし》。 花間暗断腸《くわかんひそかにはらわたをたつ》。
自能窺宋玉《みづからよくそうぎよくをうかゞふ》。 何必恨王昌《なんぞかならずしもわうしやうをうらまん》。
[#ここで字下げ終わり]
采蘋は体が小くて軽率であった。それに年が十六で、もう十九になっている玄機よりは少《わか》いので、始終|沈重《ちんちょう》な玄機に制馭《せいぎょ》せられていた。そして二人で争うと、いつも采蘋が負けて泣いた。そう云う事は日毎にあった。しかし二人は直《ただち》にまた和睦《わぼく》する。女道士仲間では、こう云う風に親しくするのを対食と名づけて、傍《かたわら》から揶揄《やゆ》する。それには羨《せん》と妬《と》とも交《まじ》っているのである。
秋になって采蘋は忽《たちまち》失踪《しっそう》した。それは趙の所で塑像を造っていた旅の工人が、暇《いとま》を告げて去ったのと同時であった。前に対食を嘲《あざけ》った女等が、趙に玄機の寂しがっていることを話すと、趙は笑って「蘋也飄蕩《ひんやへうたう》、※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]也幽独《けいやいうどく》」と云った。玄機は字《あざな》を幼微と云い、また※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]蘭《けいらん》とも云ったからである。
――――――――――――――――――――
趙は修法の時に規律を以て束縛するばかりで、楼観の出入などを厳にすることはなかった。玄機の所へは、詩名が次第に高くなったために、書を索《もと》めに来る人が多かった。そう云う人は玄機に金を遣ることもある。物を遣ることもある。中には玄機の美しいことを聞いて、名を索書に藉《か》りて訪《と》うものもある。ある士人は酒を携えて来て玄機に飲ませようとすると、玄機は僮僕《どうぼく》を呼んで、その人を門外に逐《お》い出させたそうである。
然るに
前へ
次へ
全8ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング