たのに、今は陳がそう云う時、多く緑翹と語った。その上そう云う時の陳の詞《ことば》は極《きわめ》て温和である。玄機はそれを聞く度に胸を刺されるように感じた。
 ある日玄機は女道士仲間に招かれて、某の楼観に往った。書斎を出る時、緑翹にその観の名を教えて置いたのである。さて夕方になって帰ると、緑翹が門《かど》に出迎えて云った。「お留守に陳さんがお出《いで》なさいました。お出になった先を申しましたら、そうかと云ってお帰なさいました」と云った。
 玄機は色を変じた。これまで留守の間に陳の来たことは度々あるが、いつも陳は書斎に入って待っていた。それに今日は程近い所にいるのを知っていて、待たずに帰ったと云う。玄機は陳と緑翹との間に何等かの秘密があるらしく感じたのである。
 玄機は黙って書斎に入って、暫く坐《ざ》して沈思していた。猜疑《さいぎ》は次第に深くなり、忿恨《ふんこん》は次第に盛んになった。門に迎えた緑翹の顔に、常に無い侮蔑《ぶべつ》の色が見えたようにも思われて来る。温言を以て緑翹を賺《すか》す陳の声が歴々として耳に響くようにも思われて来る。
 そこへ緑翹が燈《ともしび》に火を点じて持って来た。何気なく見える女の顔を、玄機は甚だしく陰険なように看取した。玄機は突然起って扉に鎖《じょう》を下した。そして震《ふる》う声で詰問しはじめた。女はただ「存じません、存じません」と云った。玄機にはそれが甚しく狡獪《こうかい》なように感ぜられた。玄機は床の上に跪《ひざまず》いている女を押し倒した。女は懾《おそ》れて目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》っている。「なぜ白状しないか」と叫んで玄機は女の吭《のど》を扼《やく》した。女はただ手足をもがいている。玄機が手を放して見ると、女は死んでいた。

       ――――――――――――――――――――

 玄機の緑翹を殺したことは、やや久しく発覚せずにいた。殺した翌日陳の来た時には、玄機は陳が緑翹の事を問うだろうと予期していた。しかし陳は問わなかった。玄機がとうとう「あの緑翹がゆうべからいなくなりましたが」と云って陳の顔色を覗《うかが》うと、陳は「そうかい」と云っただけで、別に意に介せぬらしく見えた。玄機は前夜のうちに観の背後《うしろ》に土を取った穴のある処へ、緑翹の屍《かばね》を抱いて往って、穴の中へ推し墜《おと》して、上
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