安になって席を起ち、あちこち室内を歩いて、机の上の物を取っては、また直《すぐ》に放下しなどしていた。やや久しゅうして後、玄機は紙を展《の》べて詩を書いた。それは楽人|陳某《ちんぼう》に寄せる詩であった。陳某は十日ばかり前に、二三人の貴公子と共にただ一度玄機の所に来たのである。体格が雄偉で、面貌《めんぼう》の柔和な少年で、多く語らずに、始終微笑を帯びて玄機の挙止を凝視していた。年は玄機より少《わか》いのである。
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感懐寄人《かんくわいひとによす》
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恨寄朱絃上《うらみをしゆげんのうへによせ》。 含情意不任《じやうをふくめどもいまかせず》。 早知雲雨会《はやくもしるうんうのくわいするを》。
未起※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]蘭心《いまだおこさずけいらんのこゝろ》。 灼々桃兼李《しやく/\たるもゝとすもゝ》。 無妨国士尋《こくしのたづぬるをさまたぐるなし》。
蒼々松与桂《さう/\たるまつとかつら》。 仍羨世人欽《なほうらやむよのひとのあふぐを》。 月色庭階浄《げつしよくていかいにきよく》。
歌声竹院深《かせいちくゐんにふかし》。 門前紅葉地《もんぜんこうえふのち》。 不掃待知音《はらはずちいんをまつ》。
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陳は翌日詩を得て、直《ただち》に咸宜観に来た。玄機は人を屏《しりぞ》けて引見し、僮僕に客を謝することを命じた。玄機の書斎からはただ微《かす》かに低語の声が聞えるのみであった。初夜を過ぎて陳は辞し去った。これからは陳は姓名を通ぜずに玄機の書斎に入ることになり、玄機は陳を迎える度に客を謝することになった。
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陳の玄機を訪《と》うことが頻《しきり》なので、客は多く卻《しりぞ》けられるようになった。書を索《もと》めるものは、ただ金を贈って書を得るだけで、満足しなくてはならぬことになったのである。
一月ばかり後に、玄機は僮僕に暇《いとま》を遣《や》って、老婢《ろうひ》一人を使うことにした。この醜悪な、いつも不機嫌な媼《おうな》はほとんど人に物を言うこともないので、観内の状況は世間に知られることが少く、玄機と陳とは余り人に煩聒《はんかつ》せられずにいることが出来た。
陳は時々旅行することがある。玄機はそう云う時にも客を迎えずに、
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