男の箸は一切れの肉を自分の口に運んだ。それはさっき娘の箸の挟もうとした肉であった。
 娘の目はまた男の顔に注がれた。その目の中には怨も怒もない。ただ驚がある。
 永遠に渇している目には、四本の箸の悲しい競争を見る程の余裕がなかった。
 女は最初自分の箸を割って、盃洗《はいせん》の中の猪口《ちょく》を挟んで男に遣った。箸はそのまま膳の縁に寄せ掛けてある。永遠に渇している目には、またこの箸を顧みる程の余裕がない。
 娘は驚きの目をいつまで男の顔に注いでいても、食べろとは云って貰《もら》われない。もう好い頃だと思って箸を出すと、その度毎に「そりゃあ煮えていねえ」を繰り返される。
 驚の目には怨も怒もない。しかし卵から出たばかりの雛《ひな》に穀物を啄《ついば》ませ、胎を離れたばかりの赤ん坊を何にでも吸い附かせる生活の本能は、驚の目の主《ぬし》にも動く。娘は箸を鍋から引かなくなった。
 男のすばしこい箸が肉の一切れを口に運ぶ隙《すき》に、娘の箸は突然手近い肉の一切れを挟んで口に入れた。もうどの肉も好く煮えているのである。
 少し煮え過ぎている位である。
 男は鋭く切れた二皮目で、死んだ友達の一人
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