けていた蝙蝠傘である。
 もう一月余り前の事であった。夫が或る日横浜から帰って、みやげに蝙蝠の日傘を買って来た。柄がひどく長くて、張ってある切れが割合に小さい。背の高い西洋の女が手に持っておもちゃにするには好かろうが、ずんぐりむっくりしたお常が持って見ると、極端に言えば、物干竿《ものほしざお》の尖《さき》へおむつを引っ掛けて持ったようである。それでそのまま差さずにしまって置いた。その傘は白地に細かい弁慶縞《べんけいじま》のような形《かた》が、藍《あい》で染め出してあった。たしがらやの店にいた女の蝙蝠傘がそれと同じだと云うことを、お常ははっきり認めた。
 酒屋の角を池の方へ曲がる時、女中が機嫌を取るように云った。
「ねえ、奥さん。そんなに好い女じゃありませんでしょう。顔が平べったくて、いやに背が高くて」
「そんな事を言うものじゃないよ」と云ったぎり、相手にならずにずんずん歩く。女中は当がはずれて、不平らしい顔をして附いて行《ゆ》く。
 お常は只胸の中《うち》が湧《わ》き返るようで、何事をもはっきり考えることが出来ない。夫に対してどうしよう、なんと云おうと云う思案も無い。その癖早く夫に打《ぶ》っ附かって、なんとか云わなくてはいられぬような気がする。そしてこんな事を思う。あの蝙蝠傘を買って来て貰った時、わたしはどんなにか喜んだだろう。これまでこっちから頼まぬのに、物なんぞ買って来てくれたことはない。どうして今度に限って、みやげを買って来てくれたのだろうと、不思議には思ったが、その不思議と云うのも、どうして夫が急に親切になったかと思ったのであった。今考えれば、おお方あの女が頼んで買って貰った時、ついでにわたしのを買ったのだろう。きっとそうに違いない。そうとは知らずに、わたしは難有《ありがた》く思ったのだ。わたしには差されもしない、あんな傘を貰って、難有く思ったのだ。傘ばかりでは無い。あの女の着物や髪の物も、内で買って遣ったのかも知れない。丁度わたしの差している、毛繻子張のこの傘と、あの舶来の蝙蝠とが違うように、わたしとあの女とは、身に着けている程の物が皆違っている。それにわたしばかりではない。子供に着物を着せたいと思っても、なかなか拵《こしら》えてくれはしない。男の子には筒っぽが一枚あれば好いものだと云う。女の子だと、小さいうちに着物を拵えるのは損だと云う。何万と云う金を持った人の女房や子供に、わたし達親子のようななりをしているものがあるだろうか。今から思って見れば、あの女がいたお蔭で、わたし達に構ってくれなかったかも知れない。吉田さんの持物だったなんと云うのも、本当だかどうだか当にはならない。七曲りとかにいた時分から、内で囲って置いたかも知れない。いや。きっとそうに違ない。金廻りが好くなって、自分の着物や持物に贅沢《ぜいたく》をするようになったのを、附合があるからだのなんのと云ったが、あの女がいたからだろう。わたしをどこへでも連れて行かずに、あの女を連れて行ったに違ない。ええ、悔やしい。こんな事を思っていると、突然女中が叫んだ。
「あら、奥さん。どこへいらっしゃるのです」
 お常はびっくりして立ち留まった。下を向いてずんずん歩いていて、我家の門《かど》を通り過きようとしたのである。
 女中が無遠慮に笑った。

     拾肆《じゅうし》

 朝の食事の跡始末をして置いて、お常が買物に出掛ける時、末造は烟草を呑みつつ新聞を読んでいたが、帰って見れば、もう留守になっていた。若し内にいたら、なんと云って好《い》いかは知らぬが、とにかく打っ附かって、むしゃぶり附いて、なんとでも云って遣りたいような心持で帰ったお常は拍子抜けがした。午食《ひるしょく》の支度もしなくてはならない。もう間もなく入用《いりよう》になる子供の袷《あわせ》の縫い掛けてあるのも縫わなくてはならない。お常は器械的に、いつものように働いているうちに、夫に打っ附かろうと思った鋭鋒《えいほう》は次第に挫《くじ》けて来た。これまでもひどい勢《いきおい》で、石垣に頭を打ち附ける積りで、夫に衝突したことは、度々ある。しかしいつも頭にあらがう筈の石垣が、腕を避ける暖簾《のれん》であるのに驚かされる。そして夫が滑かな舌で、道理らしい事を言うのを聞いていると、いつかその道理に服するのではなくて、只何がなしに萎《な》やされてしまうのである。きょうはなんだか、その第一の襲撃も旨《うま》く出来そうには思われなくなって来る。お常は子供を相手に午食を食べる。喧嘩をする子供の裁判をする。袷を縫う。又夕食の支度をする。子供に行水を遣わせて、自分も使う。蚊遣《かやり》をしながら夕食を食べる。食後に遊びに出た子供が遊び草臥《くたび》れて帰る。女中が勝手から出て来て、極まった所に床を取ったり、蚊帳《かや》を弔《つ》ったりする。手水《ちょうず》をさせて子供を寝かす。夫の夕食の膳に蝿除《はえよけ》を被《かぶ》せて、火鉢に鉄瓶を掛けて、次の間《ま》に置く。夫が夕食に帰らなかった時は、いつでもこうして置くのである。
 お常はこれだけの事を器械的にしてしまった。そして団扇《うちわ》を一本持って蚊屋《かや》の中へ這入《はい》って据わった。その時けさ途《みち》で逢った、あの女の所に、今時分夫が往っているだろうと云うことが、今更のようにはっきりと想像せられた。どうも体を落ち着けて、据わってはいられぬような気持がする。どうしよう、どうしようと思ううちに、ふらふらと無縁坂の家《うち》の所まで往って見たくなる。いつか藤村《ふじむら》へ、子供の一番好きな田舎饅頭《いなかまんじゅう》を買いに往った時、したて物の師匠の内の隣と云うのはこの家だなと思って、見て通ったので、それらしい格子戸の家は分かっている。ついあそこまで往って見たい。火影《ほかげ》が外へ差しているか。話声が微《かす》かにでも聞えているか。それだけでも見て来たい。いやいや、そんな事は出来ない。外へ出るには女中部屋の傍の廊下を通らぬわけには行かない。この頃はあの廊下の所の障子がはずしてある。松はまだ起きて縫物をしている筈である。今時分どこへ往くのだと聞かれた時、なんとも返事のしようがない。何か買いに出ると云ったら、松が自分で行こうと云うだろう。して見れば、どんなに往って見たくても、そっと往って見ることは出来ない。ええ、どうしたら好かろう。けさ内へ帰る時は、ちっとも早くあの人に逢いたいと思ったが、あの時逢ったら、わたしはなんと云っただろう。逢ったら、わたしの事だから、取留のない事ばかり言ったに違いない。そうしたらあの人が又好い加減の事を言って、わたしを騙してしまっただろう。あんな利口な人だから、どうせ喧嘩をしては※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》わない。いっそ黙っていようか。しかし黙っていてどうなるだろうか。あんな女が附いていては、わたしなんぞはどうなっても構わぬ気になっているだろう。どうしよう。どうしよう。
 こんな事を繰り返し繰り返し思っては、何遍か思想が初の発足点《ほっそくてん》に跡戻《あともどり》をする。そのうちに頭がぼんやりして来て、何がなんだか分からなくなる。しかしとにかく烈《はげ》しく夫に打っ附かったって駄目だから、よそうと云うことだけは極めることが出来た。
 そこへ末造が這入って来た。お常はわざとらしく取り上げた団扇の柄をいじって黙っている。
「おや。又変な様子をしているな。どうしたのだい」上さんがいつもする「お帰りなさい」と云う挨拶をしないでいても、別に腹は立てない。機嫌が好《い》いからである。
 お常は黙っている。衝突を避けようとは思ったが、夫の帰ったのを見ると、悔やしさが込み上げて来て、まるで反抗せずにはいられそうになくなった。
「又何か下《く》だらない事を考えているな。よせよせ」上さんの肩の所に手を掛けて、二三遍ゆさぶって置いて、自分の床に据わった。
「わたしどうしようかと思っていますの。帰ろうと云ったって、帰る内は無し、子供もあるし」
「なんだと。どうしようかと思っている。どうもしなくたって好いじゃないか。天下は太平無事だ」
「それはあなたは太平楽を言っていられますでしょう。わたしさえどうにかなってしまえば好《い》いのだから」
「おかしいなあ。どうにかなるなんて。どうなるにも及ばない。そのままでいれば好《い》い」
「たんと茶にしてお出《いで》なさい。いてもいなくっても好い人間だから、相手にはならないでしょう。そうね。いてもいなくってもじゃない。いない方が好いに極まっているのだっけ」
「いやにひねくれた物の言いようをするなあ。いない方が好いのだって。大違だ。いなくては困る。子供の面倒を見て貰うばかりでも、大役だからな」
「それは跡へ綺麗なおっ母さんが来て、面倒を見てくれますでしょう。継子《ままこ》になるのだけど」
「分からねえ。二親揃って附いているから、継子なんぞにはならない筈だ」
「そう。きっとそうなの。まあ、好い気な物ね。ではいつまでも今のようにしている積なのね」
「知れた事よ」
「そう。別品とおたふくとに、お揃の蝙蝠を差させて」
「おや。なんだい、それは。お茶番の趣向見たいな事を言っているじゃないか」
「ええ。どうせわたしなんぞは真面目な狂言には出られませんからね」
「狂言より話が少し真面目にして貰いたいなあ。一体その蝙蝠てえのはなんだい」
「分かっているでしょう」
「分かるものか。まるっきり見当が附かねえ」
「そんなら言いましょう。あの、いつか横浜から蝙蝠を買って来たでしょう」
「それがどうした」
「あれはわたしばかしに買って下すったのじゃなかったのね」
「お前ばかしでなくて、誰に買って遣るものかい」
「いいえ。そうじゃないでしょう。あれは無縁坂の女のを買った序に、ふいと思い附いて、わたしのをも買って来たのでしょう」さっきから蝙蝠の話はしていても、こう具体的に云うと同時に、お常は悔やしさが込み上げて来るように感ずるのである。
「お手の筋」だとでも云いたい程適中したので、末造はぎくりとしたが、反対に呆《あき》れたような顔をして見せた。「べらぼうな話だなあ。何かい。その、お前に買った傘と同じ傘を、吉田さんの女が持っているとでも云うわけかい」
「それは同じのを買って遣ったのだから、同じのを持っているに極まっています」声が際立って鋭くなっている。
「なんの事だ。呆れたものだぜ。好い加減にしろい。なる程お前に横浜で買って遣った時は、サンプルで来たのだと云うことだったが、もう今頃は銀座辺でざらに売っているに違ない。芝居なんぞに好くある奴で、これがほんとの無実の罪と云うのだ。そして何かい。お前、あの吉田さんの女に、どこかで逢ったとでも云うのかい。好く分かったなあ」
「それは分かりますとも。ここいらで知らないものはないのです。別品だから」にくにくしい声である。これまでは末造がしらばっくれると、ついそうかと思ってしまったが、今度は余り強烈な直覚をして、その出来事を目前に見たように感じているので、末造の詞《ことば》を、なる程そうでもあろうかとは、どうしても思われなかった。
 末造はどうして逢ったか、話でもしたのかと、種々《いろいろ》に考えていながら、この場合に根掘り葉掘り問うのは不利だと思って、わざと迫窮しない。「別品だって。あんなのが別品と云うのかなあ。妙に顔の平べったいような女だが」
 お常は黙っていた。しかし憎い女の顔に難癖を附けた夫の詞に幾分か感情を融和させられた。
 この晩にも物を言い合って興奮した跡の夫婦の中直りがあった。しかしお常の心には、刺されたとげの抜けないような痛みが残っていた。

     拾伍《じゅうご》

 末造の家の空気は次第に沈んだ、重くろしい方へ傾いて来た。お常は折々只ぼうっとして空《くう》を見ていて、何事も手に附かぬことがある。そんな時には子供の世話も何も出来なくなって、子供が何か欲しいと云えば、すぐにあらあらしく叱る。叱って置いて気が附いて、子供にあやまったり、独りで泣いたりする。
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