込む不忍《しのばず》の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。それから松源《まつげん》や雁鍋《がんなべ》のある広小路、狭い賑《にぎ》やかな仲町《なかちょう》を通って、湯島天神の社内に這入《はい》って、陰気な臭橘寺《からたちでら》の角を曲がって帰る。しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。鉄門は早く鎖《とざ》されるので、患者の出入《しゅつにゅう》する長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので、今|春木町《はるきちょう》から衝《つ》き当る処《ところ》にある、あの新しい黒い門が出来たのである。赤門を出てから本郷《ほんごう》通りを歩いて、粟餅《あわもち》の曲擣《きょくづき》をしている店の前を通って、神田明神の境内に這入る。そのころまで目新しかった目金橋《めがねばし》へ降りて、柳原《やなぎはら》の片側町《かたかわまち》を少し歩く。それからお成道《なりみち》へ戻って、狭い西側の横町のどれかを穿《うが》って、矢張《やはり》臭橘寺の前に出る。これが一つの道筋である。これより外の道筋はめったに歩かない。
この散歩の途中で、岡田が何をするかと云うと、ちょいちょい古本屋の店を覗《のぞ》いて歩く位のものであった。上野広小路と仲町との古本屋は、その頃のが今も二三軒残っている。お成道にも当時そのままの店がある。柳原のは全く廃絶してしまった。本郷通のは殆ど皆場所も持主も代っている。岡田が赤門から出て右へ曲ることのめったにないのは、一体森川町は町幅も狭く、窮屈な処であったからでもあるが、当時古本屋が西側に一軒しかなかったのも一つの理由であった。
岡田が古本屋を覗くのは、今の詞で云えば、文学趣味があるからであった。しかしまだ新しい小説や脚本は出ていぬし、抒情詩《じょじょうし》では子規の俳句や、鉄幹の歌の生れぬ先であったから、誰でも唐紙《とうし》に摺《す》った花月新誌や白紙《はくし》に摺った桂林一枝《けいりんいっし》のような雑誌を読んで、槐南《かいなん》、夢香《むこう》なんぞの香奩体《こうれんたい》の詩を最も気の利いた物だと思う位の事であった。僕も花月新誌の愛読者であったから、記憶している。西洋小説の翻訳と云うものは、あの雑誌が始て出したのである。なんでも西洋の或る大学の学生が、帰省する途中で殺される話で、それを談話体に訳した人は神田孝平さんであったと思う。それが僕の西洋小説と云うものを読んだ始であったようだ。そう云う時代だから、岡田の文学趣味も漢学者が新しい世間の出来事を詩文に書いたのを、面白がって読む位に過ぎなかったのである。
僕は人附合いの余り好くない性《たち》であったから、学校の構内で好く逢う人にでも、用事がなくては話をしない。同じ下宿屋にいる学生なんぞには、帽を脱いで礼をするようなことも少かった。それが岡田と少し心安くなったのは、古本屋が媒《なかだち》をしたのである。僕の散歩に歩く道筋は、岡田のように極まってはいなかったが、脚が達者で縦横に本郷から下谷、神田を掛けて歩いて、古本屋があれば足を止めて見る。そう云う時に、度々岡田と店先で落ち合う。
「好く古本屋で出くわすじゃないか」と云うような事を、どっちからか言い出したのが、親しげに物を言った始である。
その頃神田明神前の坂を降りた曲角に、鉤《かぎ》なりに縁台を出して、古本を曝《さら》している店があった。そこで或る時僕が唐本の金瓶梅《きんぺいばい》を見附けて亭主に値を問うと、七円だと云った。五円に負けてくれと云うと、「先刻岡田さんが六円なら買うと仰《おっし》ゃいましたが、おことわり申したのです」と云う。偶然僕は工面が好かったので言値で買った。二三日立ってから、岡田に逢うと、向うからこう云い出した。
「君はひどい人だね。僕が切角見附けて置いた金瓶梅を買ってしまったじゃないか」
「そうそう君が値を附けて折り合わなかったと、本屋が云っていたよ。君欲しいのなら譲って上げよう」
「なに。隣だから君の読んだ跡を貸して貰えば好《い》いさ」
僕は喜んで承諾した。こんな風で、今まで長い間壁隣に住まいながら、交際せずにいた岡田と僕とは、往《い》ったり来たりするようになったのである。
弐《に》
そのころから無縁坂の南側は岩崎の邸《やしき》であったが、まだ今のような巍々《ぎぎ》たる土塀で囲ってはなかった。きたない石垣が築いてあって、苔《こけ》蒸《む》した石と石との間から、歯朶《しだ》や杉菜が覗いていた。あの石垣の上あたりは平地だか、それとも小山のようにでもなっているか、岩崎の邸の中に這入って見たことのない僕は、今でも知らないが、とにかく当時は石垣の上の所に、雑木が生えたい程生えて、育ちたい程育っているのが、往
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