雁
森鴎外
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)上条《かみじょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)当時|競漕《きょうそう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はる》かに
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)一《いつ》の 〔fe^te〕《フェエト》 であった。
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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壱《いち》
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条《かみじょう》と云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人《いちにん》であった。その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。
上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外《ほか》は大学の附属病院に通う患者なんぞであった。大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気《こぎ》が利いていて、お上《かみ》さんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。時々はその箱火鉢の向側《むこうがわ》にしゃがんで、世間話の一つもする。部屋で酒盛をして、わざわざ肴《さかな》を拵《こしら》えさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘《わがまま》をするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。先《ま》ずざっとこう云う性《たち》の男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅《ほしいまま》にすると云うのが常である。然《しか》るに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗《すこぶ》る趣を殊にしていた。
この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。それは美男だと云うことである。色の蒼《あお》い、ひょろひょろした美男ではない。血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。強いて求めれば、大分《だいぶ》あの頃から後《のち》になって、僕は青年時代の川上眉山《かわかみびさん》と心安くなった。あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。あれの青年時代が一寸《ちょっと》岡田に似ていた。尤《もっと》も当時|競漕《きょうそう》の選手になっていた岡田は、体格では※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はる》かに川上なんぞに優《まさ》っていたのである。
容貌はその持主を何人《なんぴと》にも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。遣《や》るだけの事をちゃんと遣って、級の中位《ちゅうい》より下には下《くだ》らずに進んで来た。遊ぶ時間は極《きま》って遊ぶ。夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。日曜日には舟を漕《こ》ぎに行くか、そうでないときは遠足をする。競漕前に選手仲間と向島《むこうじま》に泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。誰でも時計を号砲《どん》に合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠《よ》って匡《ただ》されるのである。周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本《もと》づいている。それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与《あず》かって力あるのは、ことわるまでもない。「岡田さんを御覧なさい」と云う詞《ことば》が、屡々《しばしば》お上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。此《かく》の如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。
岡田の日々《にちにち》の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川《あいそめがわ》のお歯黒のような水の流れ
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