「のである。
「何か刃物はありませんか」と岡田は云った。主人の女が一人の小娘に、「あの台所にある出刃を持ってお出《い》で」と言い附けた。その娘は女中だったと見えて、稽古に隣へ来ていると云う外の娘達と同じような湯帷子《ゆかた》を着た上に紫のメリンスでくけた襷《たすき》を掛けていた。肴《さかな》を切る庖刀《ほうちょう》で蛇を切られては困るとでも思ったか、娘は抗議をするような目附きをして主人の顔を見た。「好いよ、お前の使うのは新らしく買って遣《や》るから」と主人が云った。娘は合点が行ったと見えて、駆けて内へ這入って出刃庖刀を取って来た。
 岡田は待ち兼ねたようにそれを受け取って、穿《は》いていた下駄を脱ぎ棄てて、肱掛窓《ひじかけまど》へ片足を掛けた。体操は彼の長技である。左の手はもう庇の腕木を握っている。岡田は庖刀が新しくはあっても余り鋭利でないことを知っていたので、初から一撃に切ろうとはしない。庖刀で蛇の体を腕木に押し附けるようにして、ぐりぐりと刃を二三度前後に動かした。蛇の鱗《うろこ》の切れる時、硝子《がらす》を砕くような手ごたえがした。この時蛇はもう羽を銜えていた鳥の頭を頬のうちに手繰り込んでいたが、体に重傷を負って、波の起伏のような運動をしながら、獲物を口から吐こうともせず、首を籠から抜こうともしなかった。岡田は手を弛めずに庖刀を五六度も前後に動かしたかと思う時、鋭くもない刃がとうとう蛇を俎上《そじょう》の肉の如くに両断した。絶えず体に波を打たせていた蛇の下半身《しもはんしん》が、先《ま》ずばたりと麦門冬《りゅうのひげ》の植えてある雨垂落の上に落ちた。続いて上半身《かみはんしん》が這っていた窓の鴨居《かもい》の上をはずれて、首を籠に挿し込んだままぶらりと下がった。鳥を半分銜えてふくらんだ頭が、弓なりに撓《た》められて折れずにいた籠の竹に支《つか》えて抜けずにいるので、上半身の重みが籠に加わって、籠は四十五度位に傾いた。その中では生き残った一羽の鳥が、不思議に精力を消耗し尽さずに、また羽ばたきをして飛び廻っているのである。
 岡田は腕木に搦《から》んでいた手を放して飛び降りた。女達はこの時まで一同息を屏《つ》めて見ていたが、二三人はここまで見て裁縫の師匠の家《うち》に這入った。「あの籠を卸して蛇の首を取らなくては」と云って、岡田は女主人の顔を見た。しかし蛇の半身がぶらりと下がって、切口から黒ずんだ血がぽたぽた窓板の上に垂れているので、主人も女中も内に這入って吊るしてある麻糸をはずす勇気がなかった。
 その時「籠を卸して上げましょうか」と、とんきょうな声で云ったものがある。集まっている一同の目はその声の方に向いた。声の主は酒屋の小僧であった。岡田が蛇退治をしている間、寂しい日曜日の午後に無縁坂を通るものはなかったが、この小僧がひとり通り掛って、括縄《くぐなわ》で縛った徳利と通帳《かよいちょう》とをぶら下げたまま、蛇退治を見物していた。そのうち蛇の下半身が麦門冬の上に落ちたので小僧は徳利も帳面も棄てて置いて、すぐに小石を拾って蛇の創口《きずぐち》を叩いて、叩く度にまだ死に切らない下半身が波を打つように動くのを眺めていたのである。
「そんなら小僧さん済みませんが」と女主人が頼んだ。小さい女中が格子戸から小僧を連れて内へ這入った。間もなく窓に現れた小僧は万年青《おもと》の鉢の置いてある窓板の上に登って、一しょう懸命背伸びをして籠を吊るしてある麻糸を釘《くぎ》からはずした。そして女中が受け取ってくれぬので、小僧は籠を持ったまま窓板から降りて、戸口に廻って外へ出た。
 小僧は一しょに附いて来た女中に、「籠はわたしが持っているから、あの血を掃除しなくちゃ行けませんぜ、畳にも落ちましたからね」と、高慢らしく忠告した。「本当に早く血をふいておしまいよ」と、女主人が云った。女中は格子戸の中へ引き返した。
 岡田は小僧の持って出た籠をのぞいて見た。一羽の鳥は止まり木に止まって、ぶるぶる顫《ふる》えている。蛇に銜えられた鳥の体は半分以上口の中に這入っている。蛇は体を截《き》られつつも、最期の瞬間まで鳥を呑もうとしていたのである。
 小僧は岡田の顔を見て、「蛇を取りましょうか」と云った。「うん、取るのは好《い》いが、首を籠の真ん中の所まで持ち上げて抜くようにしないと、まだ折れていない竹が折れるよ」と、岡田は笑いながら云った。小僧は旨く首を抜き出して、指尖《ゆびさき》で鳥の尻を引っ張って見て、「死んでも放しゃあがらない」と云った。
 この時まで残っていた裁縫の弟子達は、もう見る物が無いと思ったか、揃《そろ》って隣の家の格子戸の内に這入った。
「さあ僕もそろそろお暇《いとま》をしましょう」と云って、岡田があたりを見廻した。
 女主人はうっとりと何か物を考え
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