チたり晴れたりしているもんだから、出ようかどうしようかと思って、とうとう午前の間中寝転んで、君に借りた金瓶梅《きんぺいばい》を読んでいたのだ。それから頭がぼうっとして来たので、午飯《ひるめし》を食ってからぶらぶら出掛けると、妙な事に出逢ってねえ」岡田は僕の顔を見ずに、窓の方へ向いてこう云った。
「どんな事だい」
「蛇退治を遣ったのだ」岡田は僕の方へ顔を向けた。
「美人をでも助けたのじゃないか」
「いや。助けたのは鳥だがね、美人にも関係しているのだよ」
「それは面白い。話して聞かせ給え」

     拾玖《じゅうく》

 岡田はこんな話をした。
 雲が慌ただしく飛んで、物狂おしい風が一吹二吹衝突的に起って、街《ちまた》の塵《ちり》を捲《ま》き上げては又|息《や》む午過ぎに、半日読んだ支那小説に頭を痛めた岡田は、どこへ往くと云う当てもなしに、上条の家を出て、習慣に任せて無縁坂の方へ曲がった。頭はぼんやりしていた。一体支那小説はどれでもそうだが、中にも金瓶梅は平穏な叙事が十枚か二十枚かあると思うと、約束したように怪《け》しからん事が書いてある。
「あんな本を読んだ跡だからねえ、僕はさぞ馬鹿げた顔をして歩いていただろうと思うよ」と、岡田は云った。
 暫くして右側が岩崎の屋敷の石垣になって、道が爪先下《つまさきさが》りになった頃、左側に人立ちのしているのに気が附いた。それが丁度いつも自分の殊更に見て通る家の前であったが、その事だけは岡田が話す時打ち明けずにしまった。集まっているのは女ばかりで、十人ばかりもいただろう。大半は小娘だから、小鳥の囀るように何やら言って噪《さわ》いでいる。岡田は何事も弁《わきま》えず、又それを知ろうと云う好奇心を起す暇《ひま》もなく、今まで道の真ん中を歩いていた足を二三歩その方へ向けた。
 大勢の女の目が只一つの物に集注しているので、岡田はその視線を辿《たど》ってこの騒ぎの元を見附けた。それはそこの家の格子窓の上に吊《つ》るしてある鳥籠《とりかご》である。女共の騒ぐのも無理は無い。岡田もその籠の中の様子を見て驚いた。鳥はばたばた羽ばたきをして、啼《な》きながら狭い籠の中を飛び廻っている。何物が鳥に不安を与えているのかと思って好く見れば、大きい青大将が首を籠の中に入れているのである。頭を楔《くさび》のように細い竹と竹との間に押し込んだものと見えて、籠は一寸《ちょっと》見た所では破れてはいない。蛇は自分の体の大《おおき》さの入口を開けて首を入れたのである。岡田は好く見ようと思って二三歩進んだ。小娘共の肩を並べている背後《うしろ》に立つようになったのである。小娘共は言い合せたように岡田を救助者として迎える気になったらしく、道を開いて岡田を前へ出した。岡田はこの時又新しい事実を発見した。それは鳥が一羽《いちわ》ではないと云う事である。羽ばたきをして逃げ廻っている鳥の外に、同じ羽色の鳥が今一羽もう蛇に銜《くわ》えられている。片方の羽の全部を口に含まれているに過ぎないのに、恐怖のためか死んだようになって、一方の羽をぐたりと垂れて、体が綿のようになっている。
 この時家の主人らしい稍年上の女が、慌ただしげに、しかも遠慮らしく岡田に物を言った。蛇をどうかしてくれるわけには行くまいかと云うのである。「お隣へお為事《しごと》のお稽古《けいこ》に来ていらっしゃる皆さんが、すぐに大勢でいらっしゃって下すったのですが、どうも女の手ではどうする事も出来ませんでございます」と女は言い足した。小娘の中の一人が、「この方が鳥の騒ぐのを聞いて、障子を開けて見て、蛇を見附けなすった時、きゃっと声を立てなすったもんですから、わたし共はお為事を置いて、皆出て来ましたが、本当にどうもいたすことが出来ませんの、お師匠さんはお留守ですが、いらっしゃったってお婆あさんの方《かた》ですから駄目ですわ」と云った。師匠は日曜日に休まずに一六《いちろく》に休むので、弟子が集まっていたのである。
 この話をする時岡田は、「その主人の女と云うのがなかなか別品なのだよ」と云った。しかし前から顔を見知っていて、通る度に挨拶をする女だとは云わなかった。
 岡田は返辞をするより先きに、籠の下へ近寄って蛇の様子を見た。籠は隣の裁縫の師匠の家の方に寄せて、窓に吊るしてあって、蛇はこの家と隣家との間から、庇《ひさし》の下をつたって籠にねらい寄って首を挿し込んだのである。蛇の体は縄を掛けたように、庇の腕木を横切っていて、尾はまだ隅の柱のさきに隠れている。随分長い蛇である。いずれ草木《くさき》の茂った加賀屋敷のどこかに住んでいたのがこの頃の気圧の変調を感じてさまよい出て、途中でこの籠の鳥を見附けたものだろう。岡田もどうしようかとちょいと迷った。女達がどうもすることの出来なかったのは無理も無
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