来から根まで見えていて、その根に茂っている草もめったに苅《か》られることがなかった。
 坂の北側はけちな家が軒を並べていて、一番体裁の好《い》いのが、板塀を繞《めぐ》らした、小さいしもた屋、その外《ほか》は手職をする男なんぞの住いであった。店は荒物屋に烟草屋《たばこや》位しかなかった。中に往来の人の目に附くのは、裁縫を教えている女の家で、昼間は格子窓の内に大勢の娘が集まって為事《しごと》をしていた。時候が好くて、窓を明けているときは、我々学生が通ると、いつもべちゃくちゃ盛んにしゃべっている娘共が、皆顔を挙げて往来の方を見る。そして又話をし続けたり、笑ったりする。その隣に一軒格子戸を綺麗《きれい》に拭き入れて、上がり口の叩きに、御影石《みかげいし》を塗り込んだ上へ、折々夕方に通って見ると、打水のしてある家があった。寒い時は障子が締めてある。暑い時は竹簾《たけすだれ》が卸してある。そして為立物師《したてものし》の家の賑やかな為めに、この家はいつも際立ってひっそりしているように思われた。
 この話の出来事のあった年の九月頃、岡田は郷里から帰って間もなく、夕食後に例の散歩に出て、加州の御殿の古い建物に、仮に解剖室が置いてあるあたりを過ぎて、ぶらぶら無縁坂を降り掛かると、偶然一人の湯帰りの女がかの為立物師の隣の、寂しい家に這入るのを見た。もう時候がだいぶ秋らしくなって、人が涼みにも出ぬ頃なので、一時人通りの絶えた坂道へ岡田が通り掛かると、丁度今例の寂しい家の格子戸の前まで帰って、戸を明けようとしていた女が、岡田の下駄の音を聞いて、ふいと格子に掛けた手を停《とど》めて、振り返って岡田と顔を見合せたのである。
 紺縮《こんちぢみ》の単物《ひとえもの》に、黒襦子《くろじゅす》と茶献上との腹合せの帯を締めて、繊《ほそ》い左の手に手拭《てぬぐい》やら石鹸箱《シャボンばこ》やら糠袋《ぬかぶくろ》やら海綿やらを、細かに編んだ竹の籠《かご》に入れたのを懈《だる》げに持って、右の手を格子に掛けたまま振り返った女の姿が、岡田には別に深い印象をも与えなかった。しかし結い立ての銀杏返《いちょうがえ》しの鬢《びん》が蝉《せみ》の羽《は》のように薄いのと、鼻の高い、細長い、稍《やや》寂しい顔が、どこの加減か額から頬に掛けて少し扁《ひら》たいような感じをさせるのとが目に留まった。岡田は只それだけの刹那《せ
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