つな》の知覚を閲歴したと云うに過ぎなかったので、無縁坂を降りてしまう頃には、もう女の事は綺麗に忘れていた。
しかし二日ばかり立ってから、岡田は又無縁坂の方へ向いて出掛けて、例の格子戸の家の前近く来た時、先きの日の湯帰りの女の事が、突然記憶の底から意識の表面に浮き出したので、その家の方を一寸見た。竪《たて》に竹を打ち附けて、横に二段ばかり細く削った木を渡して、それを蔓《かずら》で巻いた肱掛窓《ひじかけまど》がある。その窓の障子が一尺ばかり明いていて、卵の殻を伏せた万年青《おもと》の鉢が見えている。こんな事を、幾分かの注意を払って見た為めに、歩調が少し緩くなって、家の真ん前に来掛かるまでに、数秒時間の余裕を生じた。
そして丁度真ん前に来た時に、意外にも万年青の鉢の上の、今まで鼠色《ねずみいろ》の闇に鎖されていた背景から、白い顔が浮き出した。しかもその顔が岡田を見て微笑《ほほえ》んでいるのである。
それからは岡田が散歩に出て、この家の前を通る度に、女の顔を見ぬことは殆ど無い。岡田の空想の領分に折々この女が闖入《ちんにゅう》して来て、次第に我物顔に立ち振舞うようになる。女は自分の通るのを待っているのだろうか、それともなんの意味もなく外を見ているので、偶然自分と顔を合せることになるのだろうかと云う疑問が起る。そこで湯帰りの女を見た日より前に溯《さかのぼ》って、あの家の窓から女が顔を出していたことがあったか、どうかと思って考えて見るが、無縁坂の片側町で一番騒がしい為立物師の家の隣は、いつも綺麗に掃除のしてある、寂しい家であったと云う記念の外には、何物も無い。どんな人が住んでいるだろうかと疑ったことは慥《たし》かにあるようだが、それさえなんとも解決が附かなかった。どうしてもあの窓はいつも障子が締まっていたり、簾が降りていたりして、その奥はひっそりしていたようである。そうして見ると、あの女は近頃外に気を附けて、窓を開けて自分の通るのを待っていることになったらしいと、岡田はとうとう判断した。
通る度に顔を見合せて、その間々にはこんな事を思っているうちに、岡田は次第に「窓の女」に親しくなって、二週間も立った頃であったか、或る夕方例の窓の前を通る時、無意識に帽を脱いで礼をした。その時|微白《ほのじろ》い女の顔がさっと赤く染まって、寂しい微笑《ほほえみ》の顔が華やかな笑顔になった。
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