《たもと》をそっと引く。「なんだい」と叱るように云って、女中の顔を見る。女中は黙って左側の店に立っている女を指さす。お常はしぶしぶその方を見て、覚えず足を駐《と》める。そのとたんに女は振り返る。お常とその女とは顔を見合せたのである。
 お常は最初芸者かと思った。若し芸者なら、数寄屋町《すきやまち》にこの女程どこもかしこも揃《そろ》って美しいのは、外にあるまいと、せわしい暇に判断した。しかし次の瞬間には、この女が芸者の持っている何物かを持っていないのに気が附いた。その何物かはお常には名状することは出来ない。それを説明しようとすれば、態度の誇張とでも云おうか。芸者は着物を好《い》い恰好に着る。その好い恰好は必ず幾分か誇張せられる。誇張せられるから、おとなしいと云う所が失われる。お常の目に何物かが無いと感ぜられたのは、この誇張である。
 店の前の女は、傍を通り過ぎる誰やらが足を駐めたのを、殆ど意識せずに感じて、振り返って見たが、その通り過ぎる人の上に、なんの注意すべき点をも見出さなかったので、蝙蝠傘を少し内廻転をさせた膝《ひざ》の間に寄せ掛けて、帯の間から出して持っていた、小さい蝦蟇口《がまぐち》の中を、項《うなじ》を屈《かが》めて覗《のぞ》き込んだ。小さい銀貨を捜しているのである。
 店は仲町の南側の「たしがらや」であった。「たしがらや倒《さか》さに読めばやらかした」と、何者かの言い出した、珍らしい屋号のこの店には、金字を印刷した、赤い紙袋に入れた、歯磨を売っていた。まだ錬歯磨なんぞの舶来していなかったその頃、上等のざら附かない製品は、牡丹《ぼたん》の香《におい》のする、岸田の花王散と、このたしがらやの歯磨とであった。店の前の女は別人でない。朝早く父親の所を訪ねた帰りに、歯磨を買いに寄ったお玉であった。
 お常が四五歩通り過ぎた時、女中が※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]《ささや》いた。「奥さん。あれですよ。無縁坂の女は」
 黙って頷《うなず》いたお常には、この詞が格別の効果を与えないので、女中は意外に思った。あの女は芸者ではないと思うと同時に、お常は本能的に無縁坂の女だと云うことを暁《さと》っていたのである。それには女中が只美しい女がいると云うだけで、袖を引いて教えはしない筈だと云う判断も手伝っているが、今一つ意外な事が影響している。それはお玉が膝の所に寄せ掛
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