は気おくれがして、分からぬなりに屈服してしまうのである。
 末造は折々烟草を呑んで烟《けぶり》を吹きながら、矢張《やはり》女房の顔を暗示するようにじっと見て、こんな事を言っている。「それ、お前も知っているだろう。まだ大学があっちにあった頃、好く内に来た吉田さんと云うのがいたなあ。あの金縁目金《きんぶちめがね》を掛けて、べらべらした着物を着ていた人よ。あれが千葉の病院へ行っているが、まだ己の方の勘定が二年や三年じゃあ埒《らち》が明かねえんだ。あの吉田さんが寄宿舎にいた時から出来ていた女で、こないだまで七曲《ななまが》りの店《たな》を借りて入れてあったのだ。最初は月々|極《き》まって為送《しおく》りをしていたところが、今年になってから手紙もよこさなけりゃ、金もよこさねえ。そこで女が先方へ掛け合ってくれろと云って己に頼んだのだ。どうして己を知っているかと思うだろうが、吉田さんは度々己の内へ来ると人の目に附いて困るからと云って、己を七曲の内へ呼んで書換の話なんぞをした事がある。その時から女が己を知っていたのだ。己も随分迷惑な話だが、序《ついで》だから掛け合って遣ったよ。ところがなかなか埒は明かねえ。女はしつっこく頼む。己は飛んだ奴に引っ掛かったと思って持て扱っているのだ。お負《まけ》に小綺麗《こぎれい》な所で店賃の安い所へ越したいから、世話をしてくれろと云うので、切通しの質屋の隠居のいた跡へ、面倒を見て越させて遣った。それやこれやで、こないだからちょいちょい寄って、烟草を二三服呑んだ事があるもんだから、近所の奴がかれこれ言やあがるのだろう。隣は女の子を集めて、為立物の師匠をしていると云うのだから、口はうるさいやな。あんな所に女を囲って置く馬鹿があるものか」こんな事を言って、末造はさげすんだように笑った。
 お上さんは小さい目を赫《かがや》かして、熱心に聞いていたが、この時甘えたような調子でこう云った。「それはお前さんの云う通りかも知れないけれど、そんな女の所へ度々行くうちには、どうなるか知れたものじゃありゃしない。どうせお金で自由になるような女だもの」お上さんはいつか「あなた」を忘れている。
「馬鹿言え。己がお前と云うものがあるのに、外《ほか》の女に手を出すような人間かい。これまでだって、女をどうしたと云うことが、只の一度でもあったかい。もうお互に焼餅喧嘩《やきもちげんか》
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