出したに、彼が応ぜぬなら、それまでの事だと思って、わざと平気で烟草を呑《の》んでいる。
「あなた今までどこにいたんです」お上さんは突然頭を持ち上けて、末造を見た。奉公人を置くようになってから、次第に詞を上品にしたのだが、差向いになると、ぞんざいになる。ようよう「あなた」だけが維持せられている。
末造は鋭い目で一目女房を見たが、なんとも云わない。何等《なにら》かの知識を女房が得たらしいとは認めても、その知識の範囲を測り知ることが出来ぬので、なんとも云うことが出来ない。末造は妄《みだ》りに語って、相手に材料を供給するような男ではない。
「もう何もかも分かっています」鋭い声である。そして末の方は泣声になり掛かっている。
「変な事を言うなあ。何が分かったのだい」さも意外な事に遭遇したと云うような調子で、声はいたわるように優しい。
「ひどいじゃありませんか。好くそんなにしらばっくれていられる事ね」夫の落ち着いているのが、却《かえ》って強い刺戟《しげき》のように利くので、上さんは声が切れ切れになって、湧《わ》いて来る涙を襦袢《じゅばん》の袖でふいている。
「困るなあ。まあ、なんだかそう云って見ねえ。まるっきり見当が附かない」
「あら。そんな事を。今夜どこにいたのだか、わたしにそう云って下さいと云っているのに。あなた好くそんな真似が出来た事ね。わたしには商用があるのなんのと云って置いて、囲物なんぞを拵えて」鼻の低い赤ら顔が、涙で※[#「火+(世/木)」、第3水準1−87−56]《ゆ》でたようになったのに、こわれた丸髷《まるまげ》の鬢《びん》の毛が一握《ひとにぎり》へばり附いている。潤んだ細い目を、無理に大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、末造の顔を見ていたが、ずっと傍へいざり寄って、金天狗《きんてんぐ》の燃えさしを撮《つま》んでいた末造の手に、力一ぱいしがみ附いた。
「廃《よ》せ」と云って、末造はその手を振り放して、畳の上に散った烟草の燃えさしを揉《も》み消した。
お上さんはしゃくり上げながら、又末造の手にしがみ附いた。「どこにだって、あなたのような人があるでしょうか。いくらお金が出来たって、自分ばかり檀那顔《だんながお》をして、女房には着物一つ拵えてはくれずに、子供の世話をさせて置いて、好《い》い気になって妾狂《めかけぐる》いをするなんて」
「廃せ
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