湯呑を下に置いて、上り口の方を見た。二枚折の葭簀屏風《よしずびょうぶ》にまだ姿の遮られているうちに、「お父っさん」と呼んだお玉の声が聞えた時は、すぐに起《た》って出迎えたいような気がしたのを、じっとこらえて据わっていた。そしてなんと云って遣ろうかと、心の内にせわしい思案をした。「好くお父っさんの事を忘れずにいたなあ」とでも云おうかと思ったが、そこへ急いで這入《はい》って来て、懐かしげに傍《そば》に来た娘を見ては、どうもそんな詞《ことば》は口に出されなくなって、自分で自分を不満足に思いながら、黙って娘の顔を見ていた。
まあ、なんと云う美しい子だろう。不断から自慢に思って、貧しい中にも荒い事をさせずに、身綺麗にさせて置いた積ではあったが、十日ばかり見ずにいるうちに、まるで生れ替って来たようである。どんな忙《いそが》しい暮らしをしていても、本能のように、肌に垢の附くような事はしていなかった娘ではあるが、意識して体を磨くようになっているきのうきょうに比べて見れば、爺いさんの記憶にあるお玉の姿は、まだ璞《あらたま》のままであった。親が子を見ても、老人が若いものを見ても、美しいものは美しい。そして美しいものが人の心を和げる威力の下《もと》には、親だって、老人だって屈せずにはいられない。
わざと黙っている爺いさんは、渋い顔をしている積であったが、不本意ながら、つい気色《けしき》を和げてしまった。お玉も新らしい境遇に身を委《ゆだ》ねた為めに、これまで小さい時から一日も別れていたことのない父親を、逢いたい逢いたいと思いながら、十日も見ずにいたのだから、話そうと思って来た事も、暫くは口に出すことが出来ずに、嬉しげに父親の顔を見ていた。
「もうお膳を下げまして宜《よろ》しゅうございましょうか」と、女中が勝手から顔を出して、尻上がりの早言《はやこと》に云った。馴染《なじみ》のないお玉には、なんと云ったか聞き取れない。髪を櫛巻《くしまき》にした小さい頭の下に太った顔の附いているのが、いかにも不釣合である。そしてその顔が不遠慮に、さも驚いたように、お玉を目守《まも》っている。
「早くお膳を下げて、お茶を入れ替えて来るのだ。あの棚にある青い分のお茶だ」爺いさんはこう云って、膳を前へ衝き出した。女中は膳を持って勝手へ這入った。
「あら。好《い》いお茶なんか戴かなくっても好《い》いのだから」
「
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