とはなかったのである。それが生活の上の苦労がなくなると同時に、始て退屈と云うことを知った。
それでもお玉の退屈は、夕方になると、檀那が来て慰めてくれるから、まだ好い。可笑《おか》しいのは、池の端へ越した爺いさんの身の上で、これも渡世に追われていたのが、急に楽になり過ぎて、自分でも狐《きつね》に撮《つま》まれたようだと思っている。そして小さいランプの下《した》で、これまでお玉と世間話をして過した水入らずの晩が、過ぎ去った、美しい夢のように恋しくてならない。そしてお玉が尋ねて来そうなものだと、絶えずそればかり待っている。ところがもう大分《だいぶ》日が立ったのに、お玉は一度も来ない。
最初一日二日の間、爺いさんは綺麗《きれい》な家に這入った嬉しさに、田舎出の女中には、水汲《みずくみ》や飯炊《めしたき》だけさせて、自分で片附けたり、掃除をしたりして、ちょいちょい足らぬ物のあるのを思い出しては、女中を仲町へ走らせて、買って来させた。それから夕方になると、女中が台所でことこと音をさせているのを聞きながら、肘掛窓《ひじかけまど》の外の高野槙《こうやまき》の植えてある所に打水をして、煙草を喫《の》みながら、上野の山で鴉《からす》が騒ぎ出して、中島の弁天の森や、蓮《はす》の花の咲いた池の上に、次第に夕靄《ゆうもや》が漂って来るのを見ていた。爺いさんは難有《ありがた》い、結構だとは思っていた。しかしその時から、なんだか物足らぬような心持がし始めた。それは赤子の時から、自分一人の手で育てて、殆ど物を言わなくても、互に意志を通じ得られるようになっていたお玉、何事につけても優しくしてくれたお玉、外から帰って来れば待っていてくれたお玉がいぬからである。窓に据わっていて、池の景色を見る。往来の人を見る。今跳ねたのは大きな鯉であった。今通った西洋婦人の帽子には、鳥が一羽丸で附けてあった。その度毎に、「お玉あれを見い」と云いたい。それがいないのが物足らぬのである。
三日四日となった頃には、次第に気が苛々して来て、女中の傍へ来て何かするのが気に障る。もう何十年か奉公人を使ったことがないのに、原来《がんらい》優しい性分だから、小言は言わない。只女中のする事が一々自分の意志に合わぬので、不平でならない。起居《たちい》のおとなしい、何をしても物に柔《やわらか》に当るお玉と比べて見られるのだから、田舎か
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