L憶している。[#ここから横組み]π=3.14159265[#ここで横組み終わり]になるのだ。実際それ以上の数は不必要だよ」
こう云っているうちに、三人は四辻を通り過ぎた。巡査は我々の通る横町の左側、交番の前に立って、茅町を根津の方へ走る人力車を見ていたが、我々には只無意味な一瞥《いちべつ》を投じたに過ぎなかった。
「なんだって円錐の立方積なんぞを計算し出したのだ」と、僕は石原に言ったが、それと同時に僕の目は坂の中程に立って、こっちを見ている女の姿を認めて、僕の心は一種異様な激動を感じた。僕は池の北の端から引き返す途《みち》すがら、交番の巡査の事を思うよりは、この女の事を思っていた。なぜだか知らぬが、僕にはこの女が岡田を待ち受けていそうに思われたのである。果して僕の想像は僕を欺かなかった。女は自分の家よりは二三軒先へ出迎えていた。
僕は石原の目を掠《かす》めるように、女の顔と岡田の顔とを見較べた。いつも薄紅《うすくれない》に※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にお》っている岡田の顔は、確に一入《ひとしお》赤く染まった。そして彼は偶然帽を動かすらしく粧《よそお》って、帽の庇《ひさし》に手を掛けた。女の顔は石のように凝っていた。そして美しく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った目の底には、無限の残惜しさが含まれているようであった。
この時石原の僕に答えた詞は、その響が耳に入《い》っただけで、その意は心に通ぜなかった。多分岡田の外套が下ぶくれになっていて、円錐形に見える処から思い附いて、円錐の立方積と云うことを言い出したのだと、弁明したのであろう。
石原も女を見ることは見たが、只美しい女だと思っただけで意に介せずにしまったらしかった。石原はまだ饒舌《しゃべ》り続けている。「僕は君達に不動の秘訣《ひけつ》を説いて聞かせたが、君達は修養が無いから、急場に臨んでそれを実行することが出来そうでなかった。そこで僕は君達の心を外へ転ぜさせる工夫をしたのだ。問題は何を出しても好かったのだが、今云ったようなわけで円錐の公式が出たのさ。とにかく僕の工夫は好かったね。君達は円錐の公式のお蔭で、unbefangen《ウンベファンゲン》 な態度を保って巡査の前を通過することが出来たのだ」
三人は岩崎邸に附いて東へ曲る処に来た。一人乗《いちにんのり》の人力車が
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