u時刻は丁度好い。達者な雁は皆|塒《ねぐら》を変えてしまった。僕はすぐに為事に掛かる。それには君達がここにいて、号令を掛けてくれなくてはならないのだ。見給え。そこの三間ばかり前の所に蓮の茎の右へ折れたのがある。その延線に少し低い茎の左へ折れたのがある。僕はあの延線を前へ前へと行かなくてはならないのだ。そこで僕がそれをはずれそうになったら、君達がここから右とか左とか云って修正してくれるのだ」
「なる程。Parallaxe《パララックセ》 のような理窟《りくつ》だな。しかし深くはないだろうか」と岡田が云った。
「なに。背の立たない気遣は無い」こう云って、石原は素早く裸になった。
石原の踏み込んだ処を見ると、泥は膝《ひざ》の上までしか無い。鷺《さぎ》のように足を※[#「足へん+喬」、第3水準1−92−40]《あ》げては踏み込んで、ごぼりごぼりと遣って行く。少し深くなるかと思うと、又浅くなる。見る見る二本の蓮の茎より前に出た。暫くすると、岡田が「右」と云った。石原は右へ寄って歩く。岡田が又「左」と云った。石原が余り右へ寄り過ぎたのである。忽《たちま》ち石原は足を停めて身を屈《かが》めた。そしてすぐに跡へ引き返して来た。遠い方の蓮の茎の辺《あたり》を過ぎた頃には、もう右の手に提げている獲ものが見えた。
石原は太股《ふともも》を半分泥に汚《よご》しただけで、岸に着いた。獲ものは思い掛けぬ大さの雁であった。石原はざっと足を洗って、着物を着た。この辺《へん》はその頃まだ人の往来《ゆきき》が少くて、石原が池に這入《はい》ってから又上がって来るまで、一人も通り掛かったものが無かった。
「どうして持って行こう」と僕が云うと、石原が袴を穿きつつ云った。
「岡田君の外套《がいとう》が一番大きいから、あの下に入れて持って貰うのだ。料理は僕の所でさせる」
石原は素人家の一間を借りていた。主人の婆あさんは、余り人の好くないのが取柄で、獲ものを分けて遣れば、口を噤《つぐ》ませることも出来そうである。その家は湯島切通しから、岩崎邸の裏手へ出る横町で、曲りくねった奥にある。石原はそこへ雁を持ち込む道筋を手短に説明した。先ずここから石原の所へ往くには、由《よ》るべき道が二条《ふたすじ》ある。即ち南から切通しを経る道と、北から無縁坂を経る道とで、この二条は岩崎邸の内に中心を有した圏を画《えが》いている
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