ツも、僕は矢張《やはり》女の事を思っている。「でも石原のあれを取りに往くのが見たいよ」と、僕が暫く立ってから云う。こん度は岡田が「うん」と云って、何やら考えつつ歩いている。多分雁が気になっているのであろう。
 石段の下を南へ、弁天の方へ向いて歩く二人の心には、とにかく雁の死が暗い影を印《いん》していて、話がきれぎれになり勝であった。弁天の鳥居の前を通る時、岡田は強いて思想を他の方角に転ぜようとするらしく、「僕は君に話す事があるのだった」と言い出した。そして僕は全く思いも掛けぬ事を聞せられた。
 その話はこうである。岡田は今夜己の部屋へ来て話そうと思っていたが、丁度己にさそわれたので、一しょに外へ出た。出てからは、食事をする時話そうと思っていたが、それもどうやら駄目になりそうである。そこで歩きながら掻《か》い撮《つ》まんで話すことにする。岡田は卒業の期を待たずに洋行することに極《き》まって、もう外務省から旅行券を受け取り、大学へ退学届を出してしまった。それは東洋の風土病を研究しに来たドイツの Professor《プロフェッソル》 W.《ウエエ》 が、往復旅費四千マルクと、月給二百マルクを給して岡田を傭《やと》ったからである。ドイツ語を話す学生の中《うち》で、漢文を楽に読むものと云う注文を受けて、Baelz《ベルツ》 教授が岡田を紹介した。岡田は築地にW《ウエエ》さんを尋ねて、試験を受けた。素問《そもん》と難経《なんきょう》とを二三行ずつ、傷寒論と病源候論とを五六行ずつ訳させられたのである。難経は生憎《あいにく》「三焦」の一節が出て、何と訳して好いかとまごついたが、これは chiao《チャオ》 と音訳して済ませた。とにかく試験に合格して、即座に契約が出来た。Wさんは Baelz さんの現に籍を置いているライプチヒ大学の教授だから、岡田をライプチヒへ連れて往って、ドクトルの試験はWさんの手で引き受けてさせる。卒業論文にはWさんのために訳した東洋の文献を使用しても好《い》いと云うことである。岡田はあす上条を出て、築地のWさんの所へ越して往って、Wさんが支那と日本とで買い集めた書物の荷造をする。それからWさんに附いて九州を視察して、九州からすぐに Messagerie《メッサジュリィ》 Maritime《マリチィム》 会社の舟に乗るのである。
 僕は折々立ち留まって、「驚いた
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