lの好い女で、余所行《よそゆき》の時に結いに往けと云って、紹介して置いてくれたのに、これまでまだ一度も往かなかった内なのである。
弐拾弐《にじゅうに》
西洋の子供の読む本に、釘《くぎ》一本と云う話がある。僕は好くは記憶していぬが、なんでも車の輪の釘が一本抜けていたために、それに乗って出た百姓の息子が種々の難儀に出会うと云う筋であった。僕のし掛けたこの話では、青魚《さば》の未醤煮《みそに》が丁度釘一本と同じ効果をなすのである。
僕は下宿屋や学校の寄宿舎の「まかない」に饑《うえ》を凌《しの》いでいるうちに、身の毛の弥立《よだ》つ程厭な菜が出来た。どんな風通しの好《い》い座敷で、どんな清潔な膳の上に載せて出されようとも、僕の目が一たびその菜を見ると、僕の鼻は名状すべからざる寄宿舎の食堂の臭気を嗅《か》ぐ。煮肴《にざかな》に羊栖菜《ひじき》や相良麩《さがらぶ》が附けてあると、もうそろそろこの嗅覚《きゅうかく》の hallucination《アリュシナション》 が起り掛かる。そしてそれが青魚の未醤煮に至って窮極の程度に達する。
然るにその青魚の未醤煮が或日《あるひ》上条の晩飯の膳に上《のぼ》った。いつも膳が出ると直ぐに箸を取る僕が躊躇《ちゅうちょ》しているので、女中が僕の顔を見て云った。
「あなた青魚がお嫌《きらい》」
「さあ青魚は嫌じゃない。焼いたのなら随分食うが、未醤煮は閉口だ」
「まあ。お上さんが存じませんもんですから。なんなら玉子でも持ってまいりましょうか」こう云って立ちそうにした。
「待て」と僕は云った。「実はまだ腹も透いていないから、散歩をして来《き》よう。お上さんにはなんとでも云って置いてくれ。菜が気に入らなかったなんて云うなよ。余計な心配をさせなくても好《い》いから」
「それでもなんだかお気の毒様で」
「馬鹿を言え」
僕が立って袴《はかま》を穿《は》き掛けたので、女中は膳を持って廊下へ出た。僕は隣の部屋へ声を掛けた。
「おい。岡田君いるか」
「いる。何か用かい」岡田ははっきりした声で答えた。
「用ではないがね、散歩に出て、帰りに豊国屋へでも往こうかと思うのだ。一しょに来ないか」
「行こう。丁度君に話したい事もあるのだ」
僕は釘に掛けてあった帽を取って被って、岡田と一しょに上条を出た。午後四時過であったかと思う。どこへ往こうと云う相談もせ
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