]うのは、神話めいていて面白いが、どうもその話はそれぎりでは済みそうにないね」僕は正直に心に思う通りを言った。
「馬鹿を言い給え、未完の物なら、発表しはしないよ」岡田がこう云ったのも、矯飾《きょうしょく》して言ったわけではなかったらしい。しかし仮にそれぎりで済む物として、幾らか残惜しく思う位の事はあったのだろう。
僕は岡田の話を聞いて、単に神話らしいと云ったが、実は今一つすぐに胸に浮んだ事のあるのを隠していた。それは金瓶梅を読みさして出た岡田が、金蓮《きんれん》に逢ったのではないかと思ったのである。
大学の小使上がりで今金貸しをしている末造の名は、学生中に知らぬものが無い。金を借らぬまでも、名だけは知っている。しかし無縁坂の女が末造の妾《めかけ》だと云うことは、知らぬ人もあった。岡田はその一人《いちにん》である。僕はその頃まだ女の種性《すじょう》を好くも知らなかったが、それを裁縫の師匠の隣に囲って置くのが末造だと云うことだけは知っていた。僕の智識には岡田に比べて一日《いちじつ》の長があった。
弐拾《にじゅう》
岡田に蛇を殺して貰った日の事である。お玉はこれまで目で会釈をした事しか無い岡田と親しく話をした為めに、自分の心持が、我ながら驚く程急劇に変化して来たのを感じた。女には欲しいとは思いつつも買おうとまでは思わぬ品物がある。そう云う時計だとか指環《ゆびわ》だとかが、硝子窓の裏に飾ってある店を、女はそこを通る度に覗《のぞ》いて行く。わざわざその店の前に往こうとまではしない。何か外の用事でそこの前を通り過ぎることになると、きっと覗いて見るのである。欲しいと云う望みと、それを買うことは所詮《しょせん》企て及ばぬと云う諦《あきら》めとが一つになって、或る痛切で無い、微《かす》かな、甘い哀傷的情緒が生じている。女はそれを味うことを楽みにしている。それとは違って、女が買おうと思う品物はその女に強烈な苦痛を感ぜさせる。女は落ち着いていられぬ程その品物に悩まされる。縦《たと》い幾日か待てば容易《たやす》く手に入《い》ると知っても、それを待つ余裕が無い。女は暑さをも寒さをも夜闇《よやみ》をも雨雪《うせつ》をも厭《いと》わずに、衝動的に思い立って、それを買いに往くことがある。万引なんと云うことをする女も、別に変った木で刻まれたものでは無い。只この欲しい物と買いたい物
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