齔。《ちょっと》見た所では破れてはいない。蛇は自分の体の大《おおき》さの入口を開けて首を入れたのである。岡田は好く見ようと思って二三歩進んだ。小娘共の肩を並べている背後《うしろ》に立つようになったのである。小娘共は言い合せたように岡田を救助者として迎える気になったらしく、道を開いて岡田を前へ出した。岡田はこの時又新しい事実を発見した。それは鳥が一羽《いちわ》ではないと云う事である。羽ばたきをして逃げ廻っている鳥の外に、同じ羽色の鳥が今一羽もう蛇に銜《くわ》えられている。片方の羽の全部を口に含まれているに過ぎないのに、恐怖のためか死んだようになって、一方の羽をぐたりと垂れて、体が綿のようになっている。
この時家の主人らしい稍年上の女が、慌ただしげに、しかも遠慮らしく岡田に物を言った。蛇をどうかしてくれるわけには行くまいかと云うのである。「お隣へお為事《しごと》のお稽古《けいこ》に来ていらっしゃる皆さんが、すぐに大勢でいらっしゃって下すったのですが、どうも女の手ではどうする事も出来ませんでございます」と女は言い足した。小娘の中の一人が、「この方が鳥の騒ぐのを聞いて、障子を開けて見て、蛇を見附けなすった時、きゃっと声を立てなすったもんですから、わたし共はお為事を置いて、皆出て来ましたが、本当にどうもいたすことが出来ませんの、お師匠さんはお留守ですが、いらっしゃったってお婆あさんの方《かた》ですから駄目ですわ」と云った。師匠は日曜日に休まずに一六《いちろく》に休むので、弟子が集まっていたのである。
この話をする時岡田は、「その主人の女と云うのがなかなか別品なのだよ」と云った。しかし前から顔を見知っていて、通る度に挨拶をする女だとは云わなかった。
岡田は返辞をするより先きに、籠の下へ近寄って蛇の様子を見た。籠は隣の裁縫の師匠の家の方に寄せて、窓に吊るしてあって、蛇はこの家と隣家との間から、庇《ひさし》の下をつたって籠にねらい寄って首を挿し込んだのである。蛇の体は縄を掛けたように、庇の腕木を横切っていて、尾はまだ隅の柱のさきに隠れている。随分長い蛇である。いずれ草木《くさき》の茂った加賀屋敷のどこかに住んでいたのがこの頃の気圧の変調を感じてさまよい出て、途中でこの籠の鳥を見附けたものだろう。岡田もどうしようかとちょいと迷った。女達がどうもすることの出来なかったのは無理も無
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