「からと云って、篠竹《しのだけ》を沢山買って来て、女郎花《おみなえし》やら藤袴《ふじばかま》やらに一本一本それを立て副《そ》えて縛っていた。しかし二百十日は無事に過ぎてしまった。それから二百二十日があぶないと云っていたが、それも無事に過ぎた。しかしその頃から毎日毎日雲のたたずまいが不穏になって、暴模様《あれもよう》が見える。折々又夏に戻ったかと思うような蒸暑いことがある。巽《たつみ》から吹く風が強くなりそうになっては又|歇《や》む。父は二百十日が「なしくずし」になったのだと云っていた。
 僕は或る日曜日の夕方に、北千住から上条へ帰って来た。書生は皆外へ出ていて、下宿屋はひっそりしていた。自分の部屋へ這入《はい》って、暫《しばら》くぼんやりしていると、今まで誰もいないと思っていた隣の部屋でマッチを磨《す》る音がする。僕は寂しく思っていた時だから、直ぐに声を掛けた。
「岡田君。いたのか」
「うん」返事だか、なんだか分からぬような声である。僕と岡田とは随分心安くなって、他人行儀はしなくなっていたが、それにしてもこの時の返事はいつもとは違っていた。
 僕は腹の中で思った。こっちもぼんやりしていたが、岡田も矢《や》っ張《ぱり》ぼんやりしていたようだ。何か考え込んでいたのではあるまいか。こう思うと同時に、岡田がどんな顔をしているか見たいような気がした。そこで重ねて声を掛けて見た。「君、邪魔をしに往っても好《い》いかい」
「好いどころじゃない。実はさっき帰ってからぼんやりしていた所へ、君が隣へ帰って来てがたがた云わせたので、奮って明りでも附けようと云う気になったのだ」こん度は声がはっきりしている。
 僕は廊下に出て、岡田の部屋の障子を開けた。岡田は丁度鉄門の真向いになっている窓を開けて、机に肘《ひじ》を衝《つ》いて、暗い外の方を見ている。竪《たて》に鉄の棒を打ち附けた窓で、その外には犬走りに植えた側柏《ひのき》が二三本|埃《ほこり》を浴びて立っているのである。
 岡田は僕の方へ振り向いて云った。「きょうも又妙にむしむしするじゃないか。僕の所には蚊が二三|疋《びき》いてうるさくてしようがない」
 僕は岡田の机の横の方に胡坐《あぐら》を掻《か》いた。「そうだねえ。僕の親父は二百十日のなし崩しと称している」
「ふん。二百十日のなし崩しとは面白いねえ。なる程そうかも知れないよ。僕は空が曇
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