》と仰《おつ》しやる。」閭《りよ》はしつかりおぼえて置《お》かうと努力《どりよく》するやうに、眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。「わたしもこれから台州《たいしう》へ往《ゆ》くものであつて見《み》れば、殊《こと》さらお懷《なつ》かしい。序《ついで》だから伺《うかゞ》ひたいが、台州《たいしう》には逢《あ》ひに往《い》つて爲《た》めになるやうな、えらい人《ひと》はをられませんかな。」
「さやうでございます。國清寺《こくせいじ》に拾得《じつとく》と申《まを》すものがをります。實《じつ》は普賢《ふげん》でございます。それから寺《てら》の西《にし》の方《はう》に、寒巖《かんがん》と云《い》ふ石窟《せきくつ》があつて、そこに寒山《かんざん》と申《まを》すものがをります。實《じつ》は文殊《もんじゆ》でございます。さやうならお暇《いとま》をいたします。」かう言《い》つてしまつて、ついと出《で》て行《い》つた。
かう云《い》ふ因縁《いんねん》があるので、閭《りよ》は天台《てんだい》の國清寺《こくせいじ》をさして出懸《でか》けるのである。
――――――――――――――――――――――――
全體《ぜんたい》世《よ》の中《なか》の人《ひと》の、道《みち》とか宗教《しうけう》とか云《い》ふものに對《たい》する態度《たいど》に三通《みとほ》りある。自分《じぶん》の職業《しよくげふ》に氣《き》を取《と》られて、唯《たゞ》營々役々《えい/\えき/\》と年月《としつき》を送《おく》つてゐる人《ひと》は、道《みち》と云《い》ふものを顧《かへり》みない。これは讀書人《どくしよじん》でも同《おな》じ事《こと》である。勿論《もちろん》書《しよ》を讀《よ》んで深《ふか》く考《かんが》へたら、道《みち》に到達《たうたつ》せずにはゐられまい。しかしさうまで考《かんが》へないでも、日々《ひゞ》の務《つとめ》だけは辨《べん》じて行《ゆ》かれよう。これは全《まつた》く無頓著《むとんちやく》な人《ひと》である。
次《つぎ》に著意《ちやくい》して道《みち》を求《もと》める人《ひと》がある。專念《せんねん》に道《みち》を求《もと》めて、萬事《ばんじ》を抛《なげう》つこともあれば、日々《ひゞ》の務《つとめ》は怠《おこた》らずに、斷《た》えず道《みち》に志《こゝろざ》してゐることもある。儒學《じゆがく》に入《い》つても、道教《だうけう》に入《い》つても、佛法《ぶつぱふ》に入《い》つても基督教《クリストけう》に入《い》つても同《おな》じ事《こと》である。かう云《い》ふ人《ひと》が深《ふか》く這入《はひ》り込《こ》むと日々《ひゞ》の務《つとめ》が即《すなは》ち道《みち》そのものになつてしまふ。約《つゞ》めて言《い》へばこれは皆《みな》道《みち》を求《もと》める人《ひと》である。
この無頓著《むとんちやく》な人《ひと》と、道《みち》を求《もと》める人《ひと》との中間《ちゆうかん》に、道《みち》と云《い》ふものゝ存在《そんざい》を客觀的《かくくわんてき》に認《みと》めてゐて、それに對《たい》して全《まつた》く無頓著《むとんちやく》だと云《い》ふわけでもなく、さればと云《い》つて自《みづか》ら進《すゝ》んで道《みち》を求《もと》めるでもなく、自分《じぶん》をば道《みち》に疎遠《そゑん》な人《ひと》だと諦念《あきら》め、別《べつ》に道《みち》に親密《しんみつ》な人《ひと》がゐるやうに思《おも》つて、それを尊敬《そんけい》する人《ひと》がある。尊敬《そんけい》はどの種類《しゆるゐ》の人《ひと》にもあるが、單《たん》に同《おな》じ對象《たいしやう》を尊敬《そんけい》する場合《ばあひ》を顧慮《こりよ》して云《い》つて見《み》ると、道《みち》を求《もと》める人《ひと》なら遲《おく》れてゐるものが進《すゝ》んでゐるものを尊敬《そんけい》することになり、こゝに言《い》ふ中間人物《ちゆうかんじんぶつ》なら、自分《じぶん》のわからぬもの、會得《ゑとく》することの出來《でき》ぬものを尊敬《そんけい》することになる。そこに盲目《まうもく》の尊敬《そんけい》が生《しやう》ずる。盲目《まうもく》の尊敬《そんけい》では、偶《たま/\》それをさし向《む》ける對象《たいしやう》が正鵠《せいこく》を得《え》てゐても、なんにもならぬのである。
――――――――――――――――――――――――
閭《りよ》は衣服《いふく》を改《あらた》め輿《よ》に乘《の》つて、台州《たいしう》の官舍《くわんしや》を出《で》た。從者《じゆうしや》が數《すう》十|人《にん》ある。
時《とき》は冬《ふゆ》の初《はじめ》で、霜《しも》が少《すこ》し降《ふ》つてゐる。椒江《せうこう》の支流《しりう》で、始豐溪《しほうけい》と云《い》ふ川《かは》の左岸《さがん》を迂囘《うくわい》しつつ北《きた》へ進《すゝ》んで行《ゆ》く。初《はじ》め陰《くも》つてゐた空《そら》がやうやう晴《は》れて、蒼白《あをじろ》い日《ひ》が岸《きし》の紅葉《もみぢ》を照《てら》してゐる。路《みち》で出合《であ》ふ老幼《らうえう》は、皆《みな》輿《よ》を避《さ》けて跪《ひざまづ》く。輿《よ》の中《なか》では閭《りよ》がひどく好《い》い心持《こゝろもち》になつてゐる。牧民《ぼくみん》の職《しよく》にゐて賢者《けんしや》を禮《れい》すると云《い》ふのが、手柄《てがら》のやうに思《おも》はれて、閭《りよ》に滿足《まんぞく》を與《あた》へるのである。
台州《たいしう》から天台縣《てんだいけん》までは六十|里《り》半《はん》程《ほど》である。日本《にほん》の六|里《り》半《はん》程《ほど》である。ゆる/\輿《よ》を舁《か》かせて來《き》たので、縣《けん》から役人《やくにん》の迎《むか》へに出《で》たのに逢《あ》つた時《とき》、もう午《ひる》を過《す》ぎてゐた。知縣《ちけん》の官舍《くわんしや》で休《やす》んで、馳走《ちそう》になりつゝ聞《き》いて見《み》ると、こゝから國清寺《こくせいじ》までは、爪先上《つまさきあが》りの道《みち》が又《また》六十|里《り》ある。往《ゆ》き著《つ》くまでには夜《よ》に入《い》りさうである。そこで閭《りよ》は知縣《ちけん》の官舍《くわんしや》に泊《とま》ることにした。
翌朝《よくてう》知縣《ちけん》に送《おく》られて出《で》た。けふもきのふに變《かは》らぬ天氣《てんき》である。一|體《たい》天台《てんだい》一|萬《まん》八千|丈《ぢやう》とは、いつ誰《たれ》が測量《そくりやう》したにしても、所詮《しよせん》高過《たかす》ぎるやうだが、兎《と》に角《かく》虎《とら》のゐる山《やま》である。道《みち》はなか/\きのふのやうには捗《はかど》らない。途中《とちゆう》で午飯《ひるめし》を食《く》つて、日《ひ》が西《にし》に傾《かたむ》き掛《か》かつた頃《ころ》、國清寺《こくせいじ》の三|門《もん》に著《つ》いた。智者大師《ちしやだいし》の滅後《めつご》に、隋《ずゐ》の煬帝《やうだい》が立《た》てたと云《い》ふ寺《てら》である。
寺《てら》でも主簿《しゆぼ》の御參詣《ごさんけい》だと云《い》ふので、おろそかにはしない。道翹《だうげう》と云《い》ふ僧《そう》が出迎《でむか》へて、閭《りよ》を客間《きやくま》に案内《あんない》した。さて茶菓《ちやくわ》の饗應《きやうおう》が濟《す》むと、閭《りよ》が問《と》うた。「當寺《たうじ》に豐干《ぶかん》と云《い》ふ僧《そう》がをられましたか。」
道翹《だうげう》が答《こた》へた。「豐干《ぶかん》と仰《おつし》やいますか。それは先頃《さきころ》まで、本堂《ほんだう》の背後《うしろ》の僧院《そうゐん》にをられましたが、行脚《あんぎや》に出《で》られた切《きり》、歸《かへ》られませぬ。」
「當寺《たうじ》ではどう云《い》ふ事《こと》をしてをられましたか。」
「さやうでございます。僧共《そうども》の食《た》べる米《こめ》を舂《つ》いてをられました。」
「はあ。そして何《なに》か外《ほか》の僧達《そうたち》と變《かは》つたことはなかつたのですか。」
「いえ。それがございましたので、初《はじ》め只《たゞ》骨惜《ほねをし》みをしない、親切《しんせつ》な同宿《どうしゆく》だと存《ぞん》じてゐました豐干《ぶかん》さんを、わたくし共《ども》が大切《たいせつ》にいたすやうになりました。すると或《あ》る日《ひ》ふいと出《で》て行《い》つてしまはれました。」
「それはどう云《い》ふ事《こと》があつたのですか。」
「全《まつた》く不思議《ふしぎ》な事《こと》でございました。或《あ》る日《ひ》山《やま》から虎《とら》に騎《の》つて歸《かへ》つて參《まゐ》られたのでございます。そして其《その》儘《まゝ》廊下《らうか》へ這入《はひ》つて、虎《とら》の背《せ》で詩《し》を吟《ぎん》じて歩《ある》かれました。一|體《たい》詩《し》を吟《ぎん》ずることの好《すき》な人《ひと》で、裏《うら》の僧院《そうゐん》でも、夜《よる》になると詩《し》を吟《ぎん》ぜられました。」
「はあ。活《い》きた阿羅漢《あらかん》ですな。其《その》僧院《そうゐん》の址《あと》はどうなつてゐますか。」
「只今《たゞいま》も明家《あきや》になつてをりますが、折々《おり/\》夜《よる》になると、虎《とら》が參《まゐ》つて吼《ほ》えてをります。」
「そんなら御苦勞《ごくらう》ながら、そこへ御案内《ごあんない》を願《ねが》ひませう。」かう云《い》つて、閭《りよ》は座《ざ》を起《た》つた。
道翹《だうげう》は蛛《くも》の網《い》を拂《はら》ひつゝ先《さき》に立《た》つて、閭《りよ》を豐干《ぶかん》のゐた明家《あきや》に連《つ》れて行《い》つた。日《ひ》がもう暮《く》れ掛《か》かつたので、薄暗《うすくら》い屋内《をくない》を見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]《みまは》すに、がらんとして何《なに》一つ無《な》い。道翹《だうげう》は身《み》を屈《かゞ》めて石疊《いしだゝみ》の上《うへ》の虎《とら》の足跡《あしあと》を指《ゆび》さした。偶《たま/\》山風《やまかぜ》が窓《まど》の外《そと》を吹《ふ》いて通《とほ》つて、堆《うづたか》い庭《には》の落葉《おちば》を捲《ま》き上《あ》げた。其《その》音《おと》が寂寞《せきばく》を破《やぶ》つてざわ/\と鳴《な》ると、閭《りよ》は髮《かみ》の毛《け》の根《ね》を締《し》め附《つ》けられるやうに感《かん》じて、全身《ぜんしん》の肌《はだ》に粟《あは》を生《しやう》じた。
閭《りよ》は忙《せは》しげに明家《あきや》を出《で》た。そして跡《あと》から附《つ》いて來《く》る道翹《だうげう》に言《い》つた。「拾得《じつとく》と云《い》ふ僧《そう》は、まだ當寺《たうじ》にをられますか。」
道翹《だうげう》は不審《ふしん》らしく閭《りよ》の顏《かほ》を見《み》た。「好《よ》く御存《ごぞん》じでございます。先刻《せんこく》あちらの厨《くりや》で、寒山《かんざん》と申《まを》すものと火《ひ》に當《あた》つてをりましたから、御用《ごよう》がおありなさるなら、呼《よ》び寄《よ》せませうか。」
「はゝあ。寒山《かんざん》も來《き》てをられますか。それは願《ねが》つても無《な》い事《こと》です。どうぞ御苦勞《ごくらう》序《ついで》に厨《くりや》に御案内《ごあんない》を願《ねが》ひませう。」
「承知《しようち》いたしました」と云《い》つて、道翹《だうげう》は本堂《ほんだう》に附《つ》いて西《にし》へ歩《ある》いて行《ゆ》く。
閭《りよ》が背後《うしろ》から問《と》うた。「拾得《じつとく》さんはいつ頃《ごろ》から當寺《たうじ》にをられますか。」
「もう餘程《よほど》久《ひさ》しい事《こと》でございます。あれは豐干《ぶかん》さんが松林《まつばやし》の中《なか》から拾《ひろ》つて歸《かへ》られた捨子《すてご》でございます。」
「はあ。
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング