あおじろ》い日が岸の紅葉《もみじ》を照している。路《みち》で出合う老幼は、皆|輿《よ》を避けてひざまずく。輿の中では閭がひどくいい心持ちになっている。牧民の職にいて賢者を礼するというのが、手柄のように思われて、閭に満足を与えるのである。
台州から天台県までは六十里半ほどである。日本の六里半ほどである。ゆるゆる輿を舁《か》かせて来たので、県から役人の迎えに出たのに逢ったとき、もう午《ひる》を過ぎていた。知県の官舎で休んで、馳走《ちそう》になりつつ聞いてみると、ここから国清寺までは、爪尖上《つまさきあ》がりの道がまた六十里ある。往き着くまでには夜に入りそうである。そこで閭は知県の官舎に泊ることにした。
翌朝知県に送られて出た。きょうもきのうに変らぬ天気である。一体天台一万八千丈とは、いつ誰が測量したにしても、所詮高過ぎるようだが、とにかく虎のいる山である。道はなかなかきのうのようには捗《はかど》らない。途中で午飯《ひるめし》を食って、日が西に傾きかかったころ、国清寺の三門に着いた。智者大師の滅後に、隋《ずい》の煬帝《ようだい》が立てたという寺である。
寺でも主簿のご参詣だというので、おろそかにはしない。道翹《どうぎょう》という僧が出迎えて、閭を客間に案内した。さて茶菓の饗応が済むと、閭が問うた。「当寺に豊干という僧がおられましたか」
道翹が答えた。「豊干とおっしゃいますか。それはさきころまで、本堂の背後《うしろ》の僧院におられましたが、行脚《あんぎゃ》に出られたきり、帰られませぬ」
「当寺ではどういうことをしておられましたか」
「さようでございます。僧どもの食べる米を舂《つ》いておられました」
「はあ。そして何かほかの僧たちと変ったことはなかったのですか」
「いえ。それがございましたので、初めただ骨惜しみをしない、親切な同宿だと存じていました豊干さんを、わたくしどもが大切にいたすようになりました。するとある日ふいと出て行ってしまわれました」
「それはどういうことがあったのですか」
「全く不思議なことでございました。ある日山から虎に騎《の》って帰って参られたのでございます。そしてそのまま廊下へはいって、虎の背で詩を吟じて歩かれました。一体詩を吟ずることの好きな人で、裏の僧院でも、夜になると詩を吟ぜられました」
「はあ。活きた阿羅漢《あらかん》ですな。その僧院の址《あと》はどうなっていますか」
「只今もあき家になっておりますが、折り折り夜になると、虎が参って吼《ほ》えております」
「そんならご苦労ながら、そこへご案内を願いましょう」こう言って、閭は座を起った。
道翹は蛛《くも》の網《い》を払いつつ先に立って、閭を豊干のいたあき家に連れて行った。日がもう暮れかかったので、薄暗い屋内を見廻すに、がらんとして何一つない。道翹は身をかがめて石畳の上の虎の足跡を指さした。たまたま山風が窓の外を吹いて通って、うずたかい庭の落ち葉を捲き上げた。その音が寂寞《せきばく》を破ってざわざわと鳴ると、閭は髪の毛の根を締めつけられるように感じて、全身の肌に粟《あわ》を生じた。
閭は忙《せわ》しげにあき家を出た。そしてあとからついて来る道翹に言った。「拾得《じっとく》という僧はまだ当寺におられますか」
道翹は不審らしく閭の顏を見た。「よくご存じでございます。先刻あちらの厨《くりや》で、寒山と申すものと火に当っておりましたから、ご用がおありなさるなら、呼び寄せましょうか」
「ははあ。寒山も来ておられますか。それは願ってもないことです。どうぞご苦労ついでに厨にご案内を願いましょう」
「承知いたしました」と言って、道翹は本堂について西へ歩いて行く。
閭が背後《うしろ》から問うた。「拾得さんはいつごろから当寺におられますか」
「もうよほど久しいことでございます。あれは豊干さんが松林の中から拾って帰られた捨て子でございます」
「はあ。そして当寺では何をしておられますか」
「拾われて参ってから三年ほど立ちましたとき、食堂《じきどう》で上座の像に香を上げたり、燈明を上げたり、そのほか供《そな》えものをさせたりいたしましたそうでございます。そのうちある日上座の像に食事を供えておいて、自分が向き合って一しょに食べているのを見つけられましたそうでございます。賓頭盧尊者《びんずるそんじゃ》の像がどれだけ尊いものか存ぜずにいたしたことと見えます。唯今《ただいま》では厨で僧どもの食器を洗わせております」
「はあ」と言って、閭は二足三足歩いてから問うた。「それから唯今寒山とおっしゃったが、それはどういう方ですか」
「寒山でございますか。これは当寺から西の方の寒巌と申す石窟に住んでおりますものでございます。拾得が食器を滌《あら》いますとき、残っている飯や菜を竹の筒に入れて取
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング