かな。だが、己はまだちつとも支度をしてゐない。」
「それは己が拵へて遣る。直ぐ遣る。何々がいるのだ。」
「好い上着が十二いる。」
「みんなはもう持つてゐるぜ。」
ブランは詞に力を入れて繰り返した。「己のいふ事を聞いてくれ。みんなが上着を一枚づゝ持つてゐる事は、己も知つてゐる。だが、二枚づゝなくては行けないのだ。土人のボオトを手に入れるには、てんでに上着を脱いで遣らなくてはならない。それから好いナイフが十二本、鉞《まさかり》が二つ、鍋が三つだ。」
ボブロフは仲間を集めて、ブランの云つた事を取り次いだ。
仲間が不用の上着を持つてゐるものは、皆そこへ出した。この陰気な牢屋の中を出て、自由な天地に帰らうとして、大胆な為事に掛かる同志のものに対して、仲間で誰一人本能的に同情してゐないものはないから、上着の掛替《かけがへ》は惜まないのである。鍋やナイフも只で貰ひ集めたり、又少しの銭を出して、移住人から買ひ取つた。
六
新しい囚人が島に来てから十三日立つた。
翌朝ボブロフがブランを森の中へ連れて行つて、入用の品も運んで遣つた。
逃亡組は一同祈祷をして、ボブロフに暇乞ひをして出発した。
――――――――――――
こゝまで話して、ワシリは興に乗つて来て、自然に声も高くなつた。
己は問うた。「どうだつたい。いよ/\出発となつた時は、好い心持だつたらうね。」
「それは好い心持ですとも。低い木の間から、高い木ばかりの揃つてゐる森に這入り込んで、木の枝のざわざわいふのを聞いた時は、生れ変つたやうな心持がしましたよ。同志の者は、みんな勇み起ちました。その中でブランだけは俯向いて、何か分からない事を口の中で言ひながら歩いてゐるのです。どうも出立の時から、好い心持はしなかつたらしいのですね。どうせ遠い道を逃げ果《おほ》せる事の出来ないのが、胸に分かつてゐたのでせう。少し立つと皆が案内者として、頼みに思つてゐる爺いさんが、どうも頼みにならないやうな気がして来ました。勿論流浪人になつて年を取つた男ではあるし、もう二度もこの島から脱けた事があるのですから、道なぞは心得てゐます。併しわたくしや、友達のヲロヂカが見たところでは、爺いさんが頼み少なく見え出したのですね。
或る時ヲロヂカがわたくしに言ひました。「今に見ろ。ブランのお蔭で、己達はひどい目に逢ふぜ。どうもあいつは変だからな。」
ヲロヂカが又かういふのです。「どうも気が変になつてゐるやうだ。色々な独話《ひとりごと》を言つて、首を振つたり、合点合点をしたりしてゐる。指図もなにもしてくれない。もうさつきから小休《こやす》みをしても好い頃になつてゐるのに、あいつはずん/\歩いてゐる。どうも変だぜ。」
わたくしもそんな気がしました。そこでブランの側へ行つて、「どうだね、あんまり急ぎ過ぎるぢやないか、少し休んだらどうだらう」と云ひました。
さうすると、ブランは一寸立ち止まつて、わたくし共の顔を暫く見てゐて、又歩き出すのです。そしてかういふぢやありませんか。「待て待て。そんなに急いで休む事はない。どうせワルキかポギバに行けば、お前達はみんな弾を食ふのだ。さうすれば、いつまでも休まれる。」
わたくし共は、呆れてしまひました。それでも喧嘩をしようとは思ひませんでした。それに最初の日には休まずに少し余計に歩いた方が好いのだといふ事も考へたのです。
又少し歩くと、ヲロヂカがわたくしをこづいて、「どうも間違つてゐるね」と云ひました。
「なぜ。」
「ワルキまでは二十ヱルストだといふ事を聞いてゐた。もうたしかに十八ヱルストは歩いてゐる。うつかりしてゐると警戒線に打《ぶ》つ付かるぞ。」
そこでわたくし共は爺いさんに声を掛けました。「おい。ブラン。」
「なんだい。」
「もう追つ付けワルキに来るだらう。」
「まだまだ。」
かう云つて爺いさんは、ずん/\歩くのです。実はこの時今少しで、大変な目に逢ふところでした。為合《しあは》せな事には、わたくし共がふいと崖の所にボオトが一艘繋いであるのに気が付きました。そこで皆言ひ合せたやうに足を駐めたのです。
マカロフが行きなりブランを掴まへて引き戻しました。
どうも船があるからには、近所に人間がゐなくてはならないと思つたものですから、みんなで言ひ合せて、こつそり横道へ這入つて、森の中へ隠れました。これまで歩いて来た所は、河の縁で、河の両方の岸は茂つた森になつてゐるのです。
一体樺太といふ所は、春の間いつも霧が立つてゐる所です。その日にも一面の霧が掛かつてゐました。
丁度わたくし共が森の中の山道を登つて行つて、絶頂に近い所まで行つた時、風が出て谷の霧を海の方へ吹き払つたのです。その時警戒線の全体が、手の平へ乗せて見るやうに、目の前に見えたぢやありませんか。
兵隊共は営庭でぶら/\歩いてゐる。犬が何疋もそこらを嗅ぎ廻つてゐる。番兵は寝てゐるといふわけです。
わたくし共は、ほつと息を衝《つ》きました。も少しでうつかりと狼の口の中へ駈け込むところだつたのですね。
「おい。ブラン。どうしたのだい。あれは警戒線ぢやないか。」
「さうさ。あれがワルキだ。」
「お前おこつては行けないよ。お前は同志の内で一番年上だから、今まで皆がお前の指図を受ける積りでゐたのだが、どうもこれからは己達が自分で手筈をしなくてはなるまい。お前に任せてゐた日には、どこへ連れて行かれるか分からないからな。」
「どうぞみんな勘忍してくれ。己は年を取つた。己は四十年この方流浪してゐる。もう駄目だ。己は時々物忘れをしてならない。物に依つては好く覚えてゐる事もあるが、外の事はまるで忘れてしまつてゐる。どうぞ勘忍してくれ。こゝは落ち着いてゐられる所ではない。早く逃げなくては駄目だ。あの警戒線の奴が誰か森の中へ這入つて来るか、犬が一疋嗅ぎ出して近寄つて来たら、この世はお暇乞だ。」
そこでわたくし共は歩き出して、途中でブランに気を付けるやうに相談しました。わたくしはみんなに選ばれて案内者になりました。休む時の指図や、その外号令をしなくてはならないのです。尤も道はブランが知つて居る筈だといふので、先に立つて歩かせる事にしました。流浪人をしたものは皆足が丈夫で、体が一体に弱くなつても、足だけは利くものです。だからブランなんぞも、死ぬるまで歩く事だけは達者でした。
大抵わたくし共は山道を選つて歩きました。足元の悪い代りに、危険が少ないのですね。山の中では木がざわざわ云つて、小河がちよろちよろ石の上を飛び越えて流れてゐるばかりで、人に逢はないから難有いのです。移住民も土人も大抵谷の方で、河や海の近い所に住んで、肴《さかな》を取つて食つてゐます。殊に海は肴が沢山取れるのです。わたくし共も肴を手掴みにして取つた事がある位です。
そんな風にして、どこまでも海岸を遠く放れないやうに気を付けて、ずん/\逃げたのです。余り危険がないと思つて、じりじり海の方へ寄つて、とうとう岸を歩き出す。それから少し危険だと思ふと、又山の上に這ひ登るといふわけです。警戒線は、用心して遠廻りに除けて通りました。配り方はそれそれ違つてゐて、二十ヱルストを隔てて布《し》いてあつたり、五十ヱルストを隔てて布いてあつたりするから、いつ出食はすか分からないのですね。為合せな事には、どれも旨く除けて通つて、とう/\最後の警戒線まで来たのです。」
――――――――――――
ワシリはこゝまで話して間を置いた。それから暫くしてから、立ち上がつた。
己は「なぜ跡を話さないのか」と云つた。
「馬の世話をして遣らなくてはなりません。もう丁度好い時分でせう。行つてほどいて遣らうかと思ひます。」
ワシリが中庭へ出るので、己も付いて出た。
寒さが少しゆるんで、霧が低くなつた。
ワシリは空を仰いで見た。「大ぶ星が高いやうです。もう夜中を過ぎたのでせう。」
もう霧が遠い所を遮つてゐないので、今は近い部落の天幕がはつきり見える。部落は皆寝静まつてゐる。どの内の煙突からも白い煙が立つてゐる。稀には火の子が出て、寒空で消えるのもある。ヤクツク人は夜通し煖炉を焚いてゐるが、それでも温《あたゝま》りは長くは持たない。だから夜中に寒くなると、誰か早く目の醒めたものが薪をくべ足すのである。
ワシリは暫く黙つて立つて、部落の方を見てゐたが、溜息を衝いた。「久し振りで部落といふものを見ますね。もう大ぶ久しい間見ずにゐたのです。ヤクツク人は大抵固まつて住はないで、一人一人別な所に住ひますからね。わたくしもこつちの方へ越して来ませうか。こゝいらなら住み付かれるかも知れませんね。」
「ふん。今お前さんのゐる所には住み付かれないのかね。田地を持つてゐるぢやないか。それにさつきも今の境遇に安んじてゐるやうに云つてゐたぢやないか。」
ワシリは直ぐには答へなかつた。「どうも行けませんね。この辺の様子を見なければ好かつた。」
ワシリは馬の側へ寄つて顔を見て、撫でて遣つた。賢い馬は顔を見返して嘶《いなゝ》いた。ワシリは、さすりながらかう云つた。「よしよし。待つてゐろ。今に外して遣る。あした又働いてくれなくてはならないぞ。あしたは韃靼《だつたん》の馬と駈競《かけくら》をするのだ。」
それから己の方に向いて云つた。「好い馬ですよ。わたくしが乗り馴らしました。どんな競馬馬と駈競をさせても好いのです。旋風《つむじ》のやうに走りますよ。」
ワシリは繩を解いて枯草のある方へ馬を遣つた。己はワシリと一しよに天幕の内へ這入つた。
七
ワシリの顔は天幕に帰つてからも矢張不機嫌らしく見えた。そして話を為掛《しか》けてあるのを忘れたか、それとも跡を話したくなくなつたかと思はれる様子をしてゐる。そこで話の結末が聞きたいと云つて催促して見た。
ワシリは機嫌を直さずに答へた。「なんの話す程の事があるものですか。どんな事を云つて好いか、分からなくなつてしまひました。兎に角随分ひどい目に逢つたのですよ。ああ。併し話し出したものですから話してしまはなくてはなりますまいなあ。」
「それから十二日の間歩きましたが、まだ島の果までは行き付かなかつたのです。一体なら八日で、向岸へ越される筈なのですが、用心をしなくてはならないのと、案内者の好いのがないのとで、無駄をしたのです。海岸を歩けば平地であるのに、岩山に登つたり、谷合《たにあひ》の沼を渡つたりして時間を費したのです。最初出立する時、十二日分の食物を用意したのですから、それもそろそろ無くなり掛かつて来ました。そこで一度分の分量を減らしました。堅パンの残つてゐるのを、成るたけ食べてしまはないやうにして、てんでに食物を捜して、それで飢を凌いだのです。森の中には木の実が沢山あるものですから、成るたけそれを取つて食べるやうにしました。
そんな風にしてリマンといふ湾のある所へ出ました。この湾の水は常に鹹《しほから》いのですが、時々黒竜江の水が押して来ると、淡水になつて、飲む事が出来るのです。こゝからボオトに乗つて出れば、黒竜江へ這入られるのです。
どうしてボオトを手に入れようかと相談したところが、老人はもう疲れ果てゝ、目がどんよりしてゐて、なんの智慧も出ないのです。それでもとうとうかう云ひました。
「どうせボオトは土人の持つてゐるのを手に入れるのだ。」
これだけの事は云ひましたが、その土人をどこへ捜しに行つたら好いか、又土人の手から船を得るには、どういふ手段を取つたら好いかといふ事は、老人が教へてくれません。
そこでヲロヂカとマカロフとわたくしとで、同志の者にかう云ひました。
「おい。皆の者はこゝで待つてゐてくれ。己達はこの岸に沿うて歩いて見る。為合《しあは》せが好かつたら、土人を見付けて、どうにかしてボオトを手に入れようと思ふ。二三艘もあれば結構だがさう行かなければ、一艘でも手に入れるやうにしよう。みんな用心してゐるのだぜ。この辺にも警戒線が布《し》いてあるかも知れないから。」
かう云つてみんなを残して置いて、わた
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