真《ま》つ昏《くら》になつた港の所々に微かな火が点《とぼ》してある。波は砂に打ち寄せてゐる。空には重くろしい雲が一ぱい掛かつてゐる。誰も誰も沈鬱な、圧迫せられるやうな思をしてゐる。
 老人ブランが小声で云つた。「これがヅエエといふ港だ、当分はこゝの監獄に置かれるのだ。」
 土地の官憲が立ち会つた上で、点呼が始まつた。一組の点呼が済むと、上陸させられる。数箇月の間船に押し込まれてゐた囚人が、久し振りに陸地を踏むのである。今まで彼等を載せて、波に揺らせてゐた船は白い煙りを吐いてゐる。その煙りが夕闇の中で際立つて見えてゐる。
 目の前に明りが見える。人の声がする。
「囚徒か。」
「はあ。」
「こつちだ。七号舎に這入るのだ。」
 囚人の群はその明りに近づいて行く。列を正して行くのではない。ぞろぞろと不規則な群をなして、押して行くのである。随分ごたごたするのに、いつものやうに、脇から銃床《じうしやう》でこづかれないのを、囚人等は不思議なやうに感じた。
 囚人の一人が呆れた様子で囁いた。「どうだい。番兵も何も附いてゐないぢやないか。」
 これを聞いたブランが小言らしくつぶやいた。「黙つてゐろ。なんでこゝに番兵なぞがいるものか。番兵が無くつたつて、誰も逃げはしない。島は広いが、荒地ばかりだ。どこへ行つても飢ゑ死にをするより外ない。島より外は海だ。それ、音も聞えるだらう。」
 かう云つた時、丁度風が出て、一行の前に見えてゐる明りがちらついて、それと同時に岸の方から海の音が聞えて来た。丁度猛獣が目を醒してうなるやうに。
 ブランがワシリに言つた。「あの音が聞えるかい。国の諺に、八方水で取り巻かれた、これが不運だといふのである。この土地はどうしても海を渡らなくては逃げられない。それから船に乗る所まで逃げるにも道程《みちのり》が可なりある。牧場《まきば》や、森や、警戒線を通らなくては行かれない。己は動悸がする。あの海の音が不幸を予言してゐるやうでならない。どうも己にこの樺太が逃げられれば好いが。己も年が寄つたでな。もうこれまで二度脱けた。一度はブラゴヱシユチエンスクで掴まつた。二度目はロシアまで帰つて掴まつた。そして又こゝへ戻つて来た。どうもこの儘こゝで死ぬる事になりさうでならない。」
「さう云つたものでもないよ」と、ワシリが励ました。
「お前はまだ若い。もう己のやうに年を取つて、体が利かなくなつては駄目だ。あの海の凄い音を聞いてくれ。」

     五

 第七号舎からこれまでそこに住んでゐた囚人を出して、その跡へ今度来たのを入れて、最初の間出口に番兵を付けて置いた。もし番兵を付けなかつたら、これまで厳しく見張をせられてゐた癖が付いてゐるから、それが無くなつた為め、小屋から出した小羊の群のやうに、直ぐに島中にちらばつてしまふからである。
 もう久しい間島に置いてある囚人なら、見張なんぞをするには及ばない。さういふ囚人は土地の様子を精《くは》しく考へてゐるから逃げようとはしない。この島で逃げ出すのは、随分思ひ切つた為事《しごと》で、逃げたものはきつと死ぬると云つても好い位である。たまに逃亡を企てるものもあるが、それは余程決心した人間で、その決心も熟考した上の事である。そんなのを番兵で取り締まらうとしても駄目である。どうしたつて、逃げようと思へば逃げるし、又無理に留めて置いても苦役には服せない。
 島に来てから三日目に、ワシリはブランに言つた。「お前に相談するのだが、どうだらう。己達の仲間では、お前が一番年上だ。お前が先に立つて指図してくれなくてはならない。糧食の用意もしなくてはなるまいな。」
 ブランは元気のない様子をして答へた。「己も格別相談相手にはなるまいよ。随分むづかしい為事だ。もう己の年では柄にない。だからお前自分で遣らなくては駄目だ。これから三日程立つと、幾組にも分けて為事に出されるだらう。この監獄の外に出るだけなら、その時勝手に出されるのだ。だが品物は持ち出す事が出来ない。どうするが好いといふ事は、お前考へて見なさい。」
「さう云はないで、お前考へて見てくれ。お前の方が馴れてゐるのだから。」
 かう云はれたが、ブランは不熱心で、不機嫌で、只ぶら/\歩いてゐる。誰とも話をしない。どうかすると空《くう》を見て独語《ひとりごと》を言つてゐる。これで三度目に樺太を脱ける筈のこの年寄の流浪人は、見る見る弱つて行くらしい。
 彼此する内に、ワシリはブランの外に十人の同志を糾合した。いづれ劣らぬ丈夫な男である。そこでブランを捉まへて、元気を付けるやうにして、これまでのやうに冷淡でゐずに、逃亡の計画を立てゝ貰ひたいと云つて迫つた。折々はブランも話に乗つて来た。併し色々話した末には、どうも脱ける事はむづかしいとか、今度の企の不成功になるらしい前兆があるとか云ふやうな事を云つてゐる。
「どうも己はこの島から外へは出られさうでないよ」と云ふのが老人の口癖で、この詞で絶望の心持を表白してゐるのである。
 折々元気が好いと、老人も昔脱獄を為遂《しと》げた時の事を思ひ出して、夕方になつて、自分は床の上に寝てゐながら、ワシリに島の地理を話し、逃げ出す時、どの道を逃げなくてはなるまいといふやうな事を言つた。
 ヅエエの港は樺太島の西岸にあるから、アジア大陸に向つてゐるのである。こゝの海峡は三百ヱルストの幅である。小船ではとても渡られない。だから逃げようと思ふものは、大抵外の場所から逃げる。
 只逃げるだけの事は余りむづかしくはないらしい。ブランはかういふのである、「死ぬる覚悟でさへあるなら、どこへでも行かれるよ。島は広くて、野と山とがあるばかりだ。土人だつて、どこでも勝手な所に住まふといふ事は出来ない。右の方へ行くと、岩ばつかりある中へ迷ひ込んで、森から出て来る飢ゑた獣に食はれるか、さうでなければ、諦めて戻つて来る様になる。南の方へ行くと、島の果だから、海に出る。その方からは大船でなくては渡られない。それだから逃げる道は只一方しかない。北の方だな。どこまでも海岸に沿うて北へ行くのだ。海さへ見て行けば間違ひはない。彼此三百ヱルストも行くと港がある。そこは大陸までの海の幅が狭いから、ボオトで渡る事が出来るのだ。」
 こんな話をした跡で、ブランはいつもの結論を下す事になつてゐる。「ところが、己が言つて置くがな、そこからだつて逃げるのは容易な事ではない。兵隊が警戒線を布《し》いてゐるからな。最初に越さなくてはならない線はワルキといふのだ。しまひから二番目がパンギといふのだ。一番しまひのがポギバといふのだ。大方逃げる奴の亡びてしまふ所だから、そんな名が付いてゐるのだらう。(ロシア語のポギバは滅亡の義。)一体警戒線は上手に布いてあるよ。道が出し抜けに曲る所で、その曲つた角に番兵がゐる。なんの事はない、ぼんやりして歩いてゐる内に、綺麗に網に掛かつてしまふのだ。桑原々々だ。」
「だつてお前二度も遣つた覚えがあるのだから、今度はそこの場所が分かりさうな者だな。」
 老人の目は赫くのである。「それは遣つたとも。だから己のいふ事を聞いてゐて、旨く遣らなくては行けない。今に水車場の普請に己達を連れ出さうとするだらう。その時同志の者が皆望んで出掛けるのだな。食物《くひもの》を持つて出ろといふから、お前方の堅パンを持ち出すのだ。水車場にはペトルツシヤアがゐる。若い仲間の一人だ。そこから旅に立つのだな。三日の間は、ゐなくなつたつて、誰も気は付かない。この土地では三日の中に点呼に出さへすれば、咎めない事になつてゐる。病気だと云へば、医者が為事を休ませてくれる。だが、病院は随分ひどい。それよりか働き過ぎて病気になつて、体が利かなくなつた時は、森の中に寝てゐるに限る。さうすれば空気が好いからひとりでに直る。その時点呼に出て行くのだ。そこで四日目になつて点呼に出ないと逃亡と看做《みな》されるのだ。逃亡と看做されてから、遅くなつて帰つて来ると、直ぐにボツクへ載せてはたくのだ。」
「己達はボツクに乗る気遣はない。逃げた以上は帰つては来ないのだから」と、ワシリが云つた。
 ブランは又不機嫌になつて、目の色をどろんとさせて云つた。「帰つて来なければ、森の中の獣が引き裂くか、兵隊が鉄砲で打ち殺すのだ。兵隊は己達をなんとも思つてはゐない。捉まへて面倒を見て、百ヱルストも送つて来るやうな事はしない。見付けたところで打ち殺してしまへば、手数が掛からなくて好いのだ。」
「縁起の悪い事をいふな。不吉な事を知らせる烏の啼声を聞くやうだ。いよ/\あした出掛けるぞ。己達の入用な物は何々だと、お前ボブロフにさう言つてくれ。同じ船で来た仲間が取り纏めてくれるから。」
 老人は何やら口小言を言ひながら、俯向いて立つて行つた。その跡でワシリは同志にあすの用意を言つて聞かせた。組長の助手の役は、余程前に辞退したので、代りが選挙せられて、それが跡を務めてゐるのである。
 同志は手荷物の用意をした。着物や靴の痛んでゐるものは、跡へ残る人に取替へて貰つた。さうして置いて、水車場の普請に行けと云はれた時、同志者は揃つて名告《なの》り出た。
 その日の中に逃亡組は、水車場を離れてしまつて、森の中に這入つた。さて同志の頭数を調べて見ると、ブランがゐない。
 同志は随分粒が揃つてゐる。ワシリと一しよに出て来たヲロヂカは矢張流浪人だが、ワシリと仲の好い友達である。マカロフといふ大男がゐる。これは大胆で、機敏で、これまで鉱山から二度逃げ出した事がある。それからチエルケス人が二人ゐる。思ひ切つた事をする連中だが、仲間に対しては義理が堅い。それから韃靼人《だつたんじん》が一人ゐる。狡猾で、随分裏切りも為兼《しか》ねない男だが、その狡猾なところを利用すれば、有用な人物にもなりさうである。その外のものも、皆流浪人で、これまでシベリア中を股に掛けて歩いた連中である。
 一日森の中で暮して、その晩も泊つた。翌日まだブランを待つてゐる。それでもブランは来ない。
 第七号舎へ韃靼人を覗きに遣つた。韃靼人はこつそり忍んで行つて、ボブロフを呼び出した。これはワシリの親友で、囚人仲間一同から尊敬せられてゐる有力者である。
 翌朝ボブロフが森の中へ尋ねて来た。「どうだい。何か己がして遣らなくてはならない用があるのかい。」
「外ではないが、どうぞあのブランに来るやうに言つてくれ。あれが一しよに来なくては、出掛けられないのだ。もしまだ糧食が足りないといふなら、少し分けて遣つてくれ。己達はあの爺いさんの来るのを待つてゐるのだからな。」
 この話を聞いてから、ボブロフは第七号舎に帰つて見た。併しブランはまだなんの用意もしてゐない。只あちこち歩き廻つて、空《くう》を見て独語を言つてゐるのである。
 ボブロフが声を掛けた。「おい。ブラン。何をぐづ/\してゐるのだい。」
「なんだ。」
「なんだもないものだ。なぜ用意をしないのだ。」
「己かい。己は墓に這入る用意をしてゐる。」
 ボブロフは少しじれて来た。「それはなんといふ言草だ。お前の同志のものが、もう四日も森の中にゐて、お前の来るのを待つてゐるぢやないか。お前が行かないので、あいつらが戻つて来ようものなら、ボツクの上で叩き殺されてしまふだらう。お前は流浪人になつて、年を取つてゐながら、義理を知らないのか。」
 ブランは涙を飜《こぼ》してゐる。「さうさな。もう己はおしまひだ。どうせ己は島から外へ出る事は出来ない。己は年が寄つた。もう生きてゐる事は出来ない。」
「年が寄らうが寄るまいが、それはお前の事だ。一しよに逃げ出して、途中で死んだつて、誰もお前を悪くいふものはない。ところがあの十一人の人間が、お前のお蔭で、ボツクの上で死んだ日には、どうもお前をその儘では置かれないぜ。為方がないから、己は仲間に言つて聞かせる。さうしたらどうなるかといふ事は、お前だつて知つてゐるだらう。」
 ブランは真面目で答へた。「成程、それは知つてゐる。さうなつたつて、誰を恨みやうもない。己もそんなはめになつて死にたくはない。どうも行かなくてはなるまい
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