りませんか。
 兵隊共は営庭でぶら/\歩いてゐる。犬が何疋もそこらを嗅ぎ廻つてゐる。番兵は寝てゐるといふわけです。
 わたくし共は、ほつと息を衝《つ》きました。も少しでうつかりと狼の口の中へ駈け込むところだつたのですね。
「おい。ブラン。どうしたのだい。あれは警戒線ぢやないか。」
「さうさ。あれがワルキだ。」
「お前おこつては行けないよ。お前は同志の内で一番年上だから、今まで皆がお前の指図を受ける積りでゐたのだが、どうもこれからは己達が自分で手筈をしなくてはなるまい。お前に任せてゐた日には、どこへ連れて行かれるか分からないからな。」
「どうぞみんな勘忍してくれ。己は年を取つた。己は四十年この方流浪してゐる。もう駄目だ。己は時々物忘れをしてならない。物に依つては好く覚えてゐる事もあるが、外の事はまるで忘れてしまつてゐる。どうぞ勘忍してくれ。こゝは落ち着いてゐられる所ではない。早く逃げなくては駄目だ。あの警戒線の奴が誰か森の中へ這入つて来るか、犬が一疋嗅ぎ出して近寄つて来たら、この世はお暇乞だ。」
 そこでわたくし共は歩き出して、途中でブランに気を付けるやうに相談しました。わたくしはみんなに選ばれて案内者になりました。休む時の指図や、その外号令をしなくてはならないのです。尤も道はブランが知つて居る筈だといふので、先に立つて歩かせる事にしました。流浪人をしたものは皆足が丈夫で、体が一体に弱くなつても、足だけは利くものです。だからブランなんぞも、死ぬるまで歩く事だけは達者でした。
 大抵わたくし共は山道を選つて歩きました。足元の悪い代りに、危険が少ないのですね。山の中では木がざわざわ云つて、小河がちよろちよろ石の上を飛び越えて流れてゐるばかりで、人に逢はないから難有いのです。移住民も土人も大抵谷の方で、河や海の近い所に住んで、肴《さかな》を取つて食つてゐます。殊に海は肴が沢山取れるのです。わたくし共も肴を手掴みにして取つた事がある位です。
 そんな風にして、どこまでも海岸を遠く放れないやうに気を付けて、ずん/\逃げたのです。余り危険がないと思つて、じりじり海の方へ寄つて、とうとう岸を歩き出す。それから少し危険だと思ふと、又山の上に這ひ登るといふわけです。警戒線は、用心して遠廻りに除けて通りました。配り方はそれそれ違つてゐて、二十ヱルストを隔てて布《し》いてあつたり、五十ヱルストを隔てて布いてあつたりするから、いつ出食はすか分からないのですね。為合せな事には、どれも旨く除けて通つて、とう/\最後の警戒線まで来たのです。」
     ――――――――――――
 ワシリはこゝまで話して間を置いた。それから暫くしてから、立ち上がつた。
 己は「なぜ跡を話さないのか」と云つた。
「馬の世話をして遣らなくてはなりません。もう丁度好い時分でせう。行つてほどいて遣らうかと思ひます。」
 ワシリが中庭へ出るので、己も付いて出た。
 寒さが少しゆるんで、霧が低くなつた。
 ワシリは空を仰いで見た。「大ぶ星が高いやうです。もう夜中を過ぎたのでせう。」
 もう霧が遠い所を遮つてゐないので、今は近い部落の天幕がはつきり見える。部落は皆寝静まつてゐる。どの内の煙突からも白い煙が立つてゐる。稀には火の子が出て、寒空で消えるのもある。ヤクツク人は夜通し煖炉を焚いてゐるが、それでも温《あたゝま》りは長くは持たない。だから夜中に寒くなると、誰か早く目の醒めたものが薪をくべ足すのである。
 ワシリは暫く黙つて立つて、部落の方を見てゐたが、溜息を衝いた。「久し振りで部落といふものを見ますね。もう大ぶ久しい間見ずにゐたのです。ヤクツク人は大抵固まつて住はないで、一人一人別な所に住ひますからね。わたくしもこつちの方へ越して来ませうか。こゝいらなら住み付かれるかも知れませんね。」
「ふん。今お前さんのゐる所には住み付かれないのかね。田地を持つてゐるぢやないか。それにさつきも今の境遇に安んじてゐるやうに云つてゐたぢやないか。」
 ワシリは直ぐには答へなかつた。「どうも行けませんね。この辺の様子を見なければ好かつた。」
 ワシリは馬の側へ寄つて顔を見て、撫でて遣つた。賢い馬は顔を見返して嘶《いなゝ》いた。ワシリは、さすりながらかう云つた。「よしよし。待つてゐろ。今に外して遣る。あした又働いてくれなくてはならないぞ。あしたは韃靼《だつたん》の馬と駈競《かけくら》をするのだ。」
 それから己の方に向いて云つた。「好い馬ですよ。わたくしが乗り馴らしました。どんな競馬馬と駈競をさせても好いのです。旋風《つむじ》のやうに走りますよ。」
 ワシリは繩を解いて枯草のある方へ馬を遣つた。己はワシリと一しよに天幕の内へ這入つた。

     七

 ワシリの顔は天幕に帰つてからも矢張不機嫌らしく見えた
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