てゐるのは警戒線の隊長で、サルタノフといふ士官です。樺太の名高い男で、土人さへ恐れてゐたのです。なんでも囚人がこの男の手で殺された事はたび/\であつたさうです。ところが今度はさうは行きません。向うが危なくなつてゐます。
 二人の同志は例のチエルケス人でした。大胆で素早くつて、まるで猫のやうに体の利く奴です。先づ一人が正面から向つて行つて、サルタノフと岩の上で打つ付かりました。直き側でサルタノフが拳銃を打つたのを、チエルケス人は蹲《しやが》んで、弾に頭の上を通り越させました。その途端にサルタノフもチエルケス人も倒れました。今一人のチエルケス人は、同志が打たれたと思つて、恐ろしくおこつて飛び掛かりました。まだどうなつたのだか、わたくしにも分からずにゐる内に、弾に頭の上を通り越させたチエルケス人は、胴から切り放したサルタノフの首を握つて立ち上がつて、顔を引き吊らせて笑ひました。
 わたくし共はそれを見て、その場に釘付けにせられたやうになつてゐますと、チエルケス人は国詞《くにことば》で大声にどなつて、サルタノフの首を高く振り上げて、一廻し廻したかと思ふと、海へ投げ込んでしまひました。わたくし共は呆気に取られてゐると、暫くしてから、どぶんと音がしました。サルタノフの首が海に落ちたのですね。
 その時一番跡から来た兵卒が、岩の上で立ち留まつて、持つてゐた小銃をそこに棄てゝ、手で顔を押へたと思ふと、そのまゝ逃げ出しました。わたくし共は追ひ掛けては行きませんでした。その男が警戒線でたつた一人生き残つたわけです。
 後に聞けば警戒線は、二十人で張つてゐたのです。その十三人が買出しに向岸へ渡つてゐて、風が強いのでまだ帰らなかつたのださうです。そこで残つてゐた七人の内、六人はわたくし共が殺してしまつてたつた一人逃げたのです。
 為事《しごと》はこれで片付きました。併しわたくし共はまだぼんやりして、互に顔を見合せてゐましたが、とうとう臆病らしい、勢のない声をして、ためらひながら「どうしたのだらう、夢ではなかつたか知らん、本当だつたかなあ」と言ひ合つた位です。
 その時突然、さつきまで皆の寝てゐた場所で、ブランがうなつてゐるのを聞き付けました。ブランは兵卒の打つた、たつた一つの弾に中《あた》つて、致命傷を受けたのですね。
 同志の者が駈け付けて見ると、ブランは落葉松《らくえふしよう》の下で、
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