る。
久保田は暫く立つて、本の背革の文字を読んでゐた。わざと揃へたよりは、偶然集まつたと思はれる collection である。ロダンは生れ附き本好で、少年の時困窮して、Bruxelles の町をさまよつてゐた時から、始終本を手にしてゐたといふことである。古い汚れた本の中には、定めていろ/\な記念のある本もあつて、わざ/\ここへも持つて来てゐるのだらう。
葉巻の灰が崩れさうになつたので、久保田は卓に歩み寄つて、灰皿に灰を落した。卓の上に置いてある本があるので、なんだらうと思つて手に取つて見た。
向うの窓の方に寄せて置いてある、古い、金縁の本は、聖書かと思つて開けて見ると、Divina commedia の Edition de poche であつた。手前の方に斜に置いてある本を取つて見ると、Beaudelaire が全集のうちの一巻であつた。
別に読まうといふ気もなしに、最初のペエジを開けて見ると、おもちやの形而上学といふ論文がある。何を書いてゐるかと思つて、ふいと読み出した。
ボオドレエルが小さいとき、なんとかいふお嬢さんの所へ連れて行かれた。そのお嬢さんが部屋に一ぱいおもちやを持つてゐて、どれでも一つやらうと云つたといふ記念から書き出してある。
子供がおもちやを持つて遊んで、暫くするときつとそれを壊して見ようとする。その物の背後に何物があるかと思ふ。おもちやが動くおもちやだと、それを動かす衝動の元を尋ねて見たくなるのである。子供は Physique より 〔Me'taphysique〕 に之くのである。理学より形而上学に之くのである。
僅か四五ペエジの文章なので、面白さに釣られてとう/\読んでしまつた。
其時戸をこつ/\と叩く音がして、戸を開いた。ロダンが白髪頭をのぞけた。
「許して下さい。退屈したでせう。」
「いゝえ、ボオドレエルを読んでゐました」と云ひながら、久保田は為事場に出て来た。
花子はもうちやんと支度をしてゐる。
卓の上には esquisses が二枚出来てゐる。
「ボオドレエルの何を読みましたか。」
「おもちやの形而上学です。」
「人の体も形が形として面白いのではありません。霊の鏡です。形の上に透き徹つて見える内の焔が面白いのです。」
久保田が遠慮げにエスキスを見ると、ロダンは云つた。「粗いから分かりますまい。」
暫くして又云つた。「マドモアセユは実に美しい体を持つてゐます。脂肪は少しもない。筋肉は一つ/\浮いてゐる。Foxterriers の筋肉のやうです。腱がしつかりしてゐて太いので、関節の大さが手足の大さと同じになつてゐます。足一本でいつまでも立つてゐて、も一つの足を直角に伸ばしてゐられる位、丈夫なのです。丁度地に根を深く卸してゐる木のやうなのですね。肩と腰の濶い地中海の type とも違ふ。腰ばかり濶くて、肩の狭い北ヨオロツパのチイプとも違ふ。強さの美ですね。」
底本:「鴎外全集 第七巻」岩波書店
1972(昭和47)年5月22日発行
初出:「三田文学 第一卷第三號」
1910(明治43)年7月1日
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記を新字にあらためました。
入力:ふるかわゆか
校正:土屋隆
2005年5月6日作成
2005年10月22日修正
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