、兼て噂に聞いてゐた、その簡単な詞が今自分に対して発せられたのである。
「Oui, beaucoup, Monsieur !」と答へると同時に、久保田はこれから生涯勉強しようと、神明に誓つたやうな心持がしたのである。
久保田は花子を紹介した。ロダンは花子の小さい、締まつた体を、不恰好に結つた高島田の巓から、白足袋に千代田草履を穿いた足の尖まで、一目に領略するやうな見方をして、小さい巌畳な手を握つた。
久保田の心は一種の羞恥を覚えることを禁じ得なかつた。日本の女としてロダンに紹介するには、も少し立派な女が欲しかつたと思つたのである。
さう思つたのも無理は無い。花子は別品ではないのである。日本の女優だと云つて、或時忽然ヨオロツパの都会に現れた。そんな女優が日本にゐたかどうだか、日本人には知つたものはない。久保田も勿論知らないのである。しかもそれが別品でない。お三どんのやうだと云つては、可哀さうであらう。格列荒い為事をしたことはないと見えて、手足なんぞは荒れてゐない。併し十七の娘盛なのに、小間使としても少し受け取りにくい姿である。一言で評すれば、子守あがり位にしか、値踏が出来兼ねるのである。
意外にもロダンの顔には満足の色が見えてゐる。健康で余り安逸を貪つたことの無い花子の、些の脂肪をも貯へてゐない、薄い皮膚の底に、適度の労動によつて好く発育した、緊張力のある筋肉が、額と腮の詰まつた短い顔、あらはに見えてゐる頸、手袋をしない手と腕に躍動してゐるのが、ロダンには気に入つたのである。
ロダンの差し伸べた手を、もう大分ヨオロツパ慣れてゐる花子は、愛相の好い微笑を顔に見せて握つた。
ロダンは二人に椅子を侑めた。そして興行師に、「少し応接所で待つてゐて下さい」と云つた。
興行師の出て行つた跡で、二人は腰を掛けた。
ロダンは久保田の前に烟草の箱を開けて出しながら、花子に、「マドモアセユの故郷には山がありますか、海がありますか」と云つた。
花子はこんな世渡をする女の常として、いつも人に問はれるときに話す、極まつた、〔ste're'otype〕 な身の上話がある。丁度あの Zola の Lourdes で、汽車の中に乗り込んでゐて、足の創の直つた霊験を話す小娘の話のやうなものである。度々同じ事を話すので、次第に修行が詰んで、routine のある小説家の書く文章のやうになつてゐる。ロダンの不用意な問は幸にも此腹藁を破つてしまつた。
「山は遠うございます。海はぢき傍にございます。」
答はロダンの気に入つた。
「度々舟に乗りましたか。」
「乗りました。」
「自分で漕ぎましたか。」
「まだ小さかつたから、自分で漕いだことはございません。父が漕ぎました。」
ロダンの空想には画が浮かんだ。そして暫く黙つてゐた。ロダンは黙る人である。
ロダンは何の過渡もなしに、久保田にかう云つた。「マドモアセユはわたしの職業を知つてゐるでせう。着物を脱ぐでせうか。」
久保田は暫く考へた。外の人の為めになら、同国の女を裸体にする取次は無論しない。併しロダンが為めには厭はない。それは何も考へることを要せない。只花子がどう云ふだらうかと思つたのである。
「兎に角話して見ませう。」
「どうぞ。」
久保田は花子にかう云つた。「少し先生が相談があると云ふのだがね。先生が世界に又とない彫物師で、人の体を彫る人だといふことは、お前も知つてゐるだらう。そこで相談があるのだ。一寸裸になつて見せては貰はれまいかと云つてゐるのだ。どうだらう。お前も見る通り、先生はこんなお爺いさんだ。もう今に七十に間もないお方だ。それにお前の見る通りの真面目なお方だ。どうだらう。」
かう云つて、久保田はぢつと花子の顔を見てゐる。はにかむか、気取るか、苦情を言ふかと思ふのである。
「わたしなりますわ。」きさくに、さつぱりと答へた。
「承諾しました」と、久保田がロダンに告げた。
ロダンの顔は喜にかゞやいた。そして椅子から起ち上がつて、紙とチヨオクとを出して、卓の上に置きながら、久保田に言つた。「ここにゐますか。」
「わたくしの職業にも同じ必要に遭遇することはあるのです。併しマドモアセユの為めに不愉快でせう。」
「さうですか。十五分か二十分で済みますから、あそこの書籍室へでも行つてゐて下さい。葉巻でも附けて。」ロダンは一方の戸口を指ざした。
「十五分か二十分で済むさうです」と、花子に言つて置いて、久保田は葉巻に火を附けて、教へられた戸の奥に隠れた。
* * * * * *
久保田の這入つた、小さい一間は、相対してゐる両側に戸口があつて、窓は只一つある。その窓の前に粧飾のない卓が一つ置いてある。窓に向き合つた壁と、其両翼になつてゐる処とに本箱があ
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