だか、知れません。一つ外の例を引いて申しましょう。あのバアナアド・ショオの脚本にゼ・デヴィルス・ヂッシプルというのがあります。主人公ヂックが牧師の内に往《い》って、牧師夫婦と話をしているうちに、牧師が余所《よそ》へ出てしまう。そこへ敵兵が来て牧師を縛ろうとする。縛られて行けば、見せしめに磔《はりつけ》か何かにせられてしまうのです。敵兵はヂックを牧師だと思って縛りに掛かる。ヂックは牧師の積《つもり》で、平気で縛られて行《ゆ》きます。牧師がヂックのために恩義でもある人ですか。決してそうではないのです。実は悠々たる行路の人なのです。しかしヂックは「己《おれ》は牧師ではない」というのが嫌《いや》なのです。ヂックは非常な仁人とか義士とかに見えるでしょう。しかしヂックの思想はわれわれの教えられている仁だの義だのというものとは丸で違っているのです。これはわれわれの目に珍らしいばかりではありません。倫敦《ロンドン》で始て興行せられた時、英人にも丸で分からなかったのです。それだからヂックを勤めたカアソンという役者が、批評家に智恵《ちえ》を附けられて、ジックは牧師の妻《さい》を愛しているので、それで牧師の身がわりに立ったということにした。そして敵兵に捕《とら》えられる時に、そっと牧師の妻《さい》の髪に接吻《せっぷん》したのです。作者はこの興行の時にはコンスタンチノオプルにいたので、そんな事をせられたのを知らずにしまいました。これが家常茶飯に出る画家の姉えさんの孝行と好く似ています。こう云う処を考えて御覧なさい。どれだけの大問題がこの中《うち》に潜んでいるかということがわかりましょう。そこでこんな風な考も、勢《いきおい》起らずにしまうわけには行きますまい。一体孝でも、また仁や義でも、その初《はじめ》に出来た時のありさまはあるいは現代の作品に現れているような物ではなかったのだろうか。全く同一でないまでも、どれだけか似た処のある物だったのではあるまいか。それが年代を経て、固まってしまって、古代宗教の思想が、寺院の掟《おきて》になるように、今の人の謂《い》う孝とか仁義とかになったのではあるまいかと、こんな風な事も思われるでしょう。何故《なぜ》というに、現代詩人の中《うち》には随分|敬虔《けいけん》なような、自家の宗教を持っているらしい人があるのですからね。リルケなんぞもその方ですよ。こうなると、一面解決の端緒《たんちょ》が見えそうになると共に、一面問題はいよいよ大きくなるでしょう。しかし縦《よ》しやそんな風に根本の観念は生れ変って来るかも知れないとしても、宗教上に寺院の破壊が大事件《たいじけん》であると同じわけで、固まった道義的観念の破壊も大事件に相違ありません。それですから、何故《なぜ》お前は家常茶飯のような危険極まる作を翻訳するのだと云う人もありましょう。そういう人の立脚地から考えて見たら、危険かも知れません。しかしこれを危険だとして公《おおやけ》にしないとすれば、トルストイでもイブセンでも、マアテルリンク、ホフマンスタアルでも、現代的思想の作というものに、一つとして翻訳して好いのは無いのです。現代文学の全体を排斥しなくてはなりません。文学上の鎖国を断行する必要があります。そんならその鎖国を実行しようと思ったら、出来るでしょうか。あなたはどう思いますか。これも大問題ではありませんか。こん風に考えて行《ゆ》けば、問題は問題を生んで底止《ていし》する所を知らないのです。お尋《たずね》になるから、こんな事も言います。自分の出すものに講釈を附けて出すような事は、嫌《いや》だから、なるたけしないようにしています。人はおりおりそういう事をしますが、わたくしはそれを見ると不愉快に感じます。何でも芸術品は誰《たれ》の作とも、どうして出来た作とも思わずに、作|其物《そのもの》とぴったり打附《ぶっつ》かって、その時の感じを味いたいのです。わたくしの出す物なら、製作でも翻訳でも、それで人がなんにも感じてくれなければ、それで宜《よろ》しいのです。多くはそういう風で済んでしまうだろうと思います。こん度訳した家常茶飯だって、黙って出してしまえば、恐らくは誰も何とも思わずにしまいましょう。読者も家常茶飯として食べてしまいましょう。現代文学のあらゆる翻訳は皆《みな》そうなのです。そうではありませんか。
記者。伺って見れば、そんな物ですね。讃否《さんぴ》は別として、現代思想というものが、幾分か領会せられる媒《なかだち》になるとすれば、雑誌に家常茶飯を出すのも、単に娯楽ばかりでなくなりますね。
森。そうですとも。あなたが讃否と云われました、その讃否ですがね。勿論《もちろん》翻訳をするものが、原作の思想に同意しているか、いないか、同意しているなら、全部同意しているか、どこまで同意している
前へ 次へ
全21ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング