に入つて居る部分はいたはつて[#「いたはつて」に傍点]存して置いて、意識に入つて居ないものを直すと、斯う云ふ御論であります。併し或るものは意識に入つて居ると云ふことを認めると云ふと、未だ意識に入つて居らない部分も或は仕方に依つては意識に入り得るものではあるまいかと思ふ。扨《さて》古學者が假名遣のことをやかましく[#「やかましく」に傍点]論じて居るのに、例之ば本居の遠鏡《とほかゞみ》の如き、口語で書く段になると、決して假名遣を應用して居らぬと云ふことを、假名遣を一般に普通語に用ゐるのは不可能である、或は困難であると云ふ證據に引かれますけれども、是れは少し性格が違ふかと思ふ。古學者達は文語と云ふものは貴族的なもののやうに考へて居りますから、そこで貴族の階級を極く嚴重に考へまして、例之ば印度《インド》の四姓か何かのやうに考へまして、ずつと下に居る首陀羅《しゆだら》とか云ふやうな下等な人民は、是れは論外だ、斯う云ふ風に見て居りますから、所謂俗言と云ふものを卑《いや》しんだ爲めに、俗言のときは無茶なことをしたのであります。若し假名遣を俗言に應用する意があつたならば、所謂俗言を稍※[#二の字点、1
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