ゑ」と云ふときには和《わ》行の「ゑ」を書く。是れは獨逸の例で言ひますと、獨逸で「愛する」と云ふ詞で lieben と云ふ動詞があります。之れを形容詞にすると lieb となります。けれども「プ」の字を書かずに「ブ」の字を書いてある。斯う云ふ意味に假名遣の發音と相違する點を、主《お》もに語原的と外國では申して居るやうであります。斯う云ふ側のことを藤岡君の音義説に於て五十音圖に照して御説明になつたのであります。一體本會の状況を觀ますると云ふと、抑《そもそ》も假名遣と云ふものの存在からして疑はれて居る。有るか無いかの有無の論、少くも定つて居るか定つて居らぬかと云ふ定不定の御論があるのである。當局は兎に角極つた假名遣と云ふものはあるものだとお認めになつて居ります。併し芳賀博士の如きは、三宅《みやけ》博士にお答になつた言葉で見ると云ふと、多少條件付で假名遣の存在を認めて居られるけれども、殆ど極《きま》つて居らぬと云ふやうな風に御述べになつて居るやうに聽きました。其の極つて居らぬと云ふのは少數者しか用ゐて居らぬと云ふ意義であつたやうに聽きました。之に就いては私は後に又自分の意見を申します。自分は假名遣と云ふものははつきり[#「はつきり」に傍点]存在して居るもののやうに認めて居ります。契冲《けいちゆう》以來の古學者の假名遣と云ふものは、昔の發音に基いたものではあるけれども、今の發音と較《くら》べて見ても其の懸隔が餘り大きくはないと思ふ。即ち根底から之《これ》を破壞して新に假名遣を再造しなければならぬと云ふ程懸隔しては居らぬやうに見て居ります。凡《おほよ》そ「有物有則」でありまして口語の上に既に則と云ふ者は自然にある。此の則と云ふことは文語になつて來てから又一層|精《くは》しくなるのであります。世界中で最も發音的に完全な假名は古い所では Sanskrit の音字、新しい所では伊太利《イタリア》の音字だと申します。而《しか》も我假名遣と云ふものは Sanskrit に較べてもそんなに劣つて居らぬやうな立派なものであつて、自分には貴重品のやうに信ぜられまする。どうか斯う云ふ貴重品は鄭重《ていちよう》に扱つて、縱令《たとひ》それに改正を加へると云ふにしても、徐々に致したいやうに思ふのであります。Max Mueller の言葉に「口語に頭絡《とうらく》と※[#「革+橿のつくり」、第3水準1−93−81]《きやう》とを加へて文語を作つて居る」と云つて居ります。馬の頭に掛ける馬具であります。日本の文語に於ける假名遣と云ふもの、此の※[#「革+橿のつくり」、第3水準1−93−81]は決して朽《くち》て用に堪へぬ樣になつて居るのでは無い、まだ十分力のあるものだと云ふことを自分は信じて居ります。
そこで假名遣の歴史に付きまして自分の觀察を異にして居る點を二、三申したいと思ひます。古代の假名遣、殊に延暦遷都前の假名遣に付きまして大槻、芳賀兩博士等の御論がありました。其の大意は是れは其の當時の國民普通の口語であつて、是れが此頃出來た出來たての假名で發音的に書かれたものである、國民が皆之れを用ゐて居る、丁度現状の反對である、斯う云ふ風な御論がありました。そこでさう云ふ國民全體が用ゐて居りまする假名遣に、本當の存在權があるのである、今日のやうに少數者のものになつては、最早活きて居ない、死物になつて居ると云ふ風に聽取れました。扨《さて》それから時が移つて次の期に入ります。遷都後天暦までと限りませう。是れは古事記傳に斯う云ふ境界を立てたのが初めでありませう。天暦まで即ち十世紀頃であります。此間に音便が生じて來たと云ふことは今までの御論にもありました。此の音便と云ふ者は最早是れは文語の衰替の現象である。其の事は本居あたりでも「くづれたるもの」と云ふことを云つて居ります。衰替の現象であります。併し兎《と》に角《かく》それが直に發音的に寫されて居ります。扨|是迄《これまで》の假名は國民の共有物である、此後には少數者の使ふものになつたと云ふことに多くは見られて居ります。併し斯う云ふ古い時代の假名遣が果して國民一般のものでありましたか。此問題に付いては外國の例を較べて見ますと云ふと、餘程疑ふべき餘地があるやうに思ふ。Max Mueller 等は Dialect 即ち方言と云ふ詞を斯う云ふ所に用ゐます。古代に於ては何處の國でも方言は澤山あつた。其《そ》の中《うち》或る者が勢力を得て、それが文語になると云ふと、他の方言は勢力を失ふからして、其の文語の爲に壓倒せられる。斯う云ふ風に認めて居りまするが、或は我邦の古代でも文語になつて居る言葉の外に澤山の方言があつたのではあるまいかと思ふのであります。さうして見ると假名遣は既に出來た初めから少數者の假名遣を多數者に用ゐさせるものではなかつた
前へ
次へ
全11ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング