であります。一人も之れに從はぬ者はないと云つて居りますけれども、併し此の天下と云ふのは詰り教育のある或る社會を指したのでありませうから、成程定家假名遣を國民全體が用ゐたと云ふことにはなるまい。是れは多分少數でありましたでせう。それから古學者の假名遣が出て來ます。前に申しました成俊の萬葉集の奧書などを見ますると云ふと、既に假名遣の復古を企つて居ります。自分の古い假名遣を使ふのを「僻案《へきあん》」だと云つて謙遜して居るけれども、兎に角古い假名遣に由つて假名を施した。それに次いで契冲の「和字正濫抄《わじしやうらんせう》」、これは元祿六年の序があります、十七世紀の頃であります。是等が先づ復古の初りでありまして、其の後の歴史は私が此處《ここ》で述べる必要はありませぬ。芳賀博士は之れを Renaissance だと云はれました。成程適當のことと思ひます。丁度西洋の復古運動と同じ性質を有つて居るやうに思ふ。此の復古の假名遣は勿論《もちろん》發音的に改正したのではありませぬ。若し定家の假名遣が國語の變遷であつたならばそれを元へ戻さうとする此の復古運動と云ふものは、非常な不道理なものに違ひない。併し前に申します通り定家假名遣と云ふものは一時の流行病であつたから、それを治療しようと思つて和學者が起つたのだらうと私は思ふ。尚ほ進んで考へますると云ふと、發音的の側から見ると、定家假名遣よりか、復古の假名遣の方が餘程發音的なやうに認められます。此の古學者の假名遣も、勿論諸君のお認めになつて居るやうに少數者の用にしかならないのであります。そんなら其の他の一般の人民はどうして居つたかと云ふと、或は定家の式に從つたと認める人もありませう、或は何にも據《よ》らず亂雜に書いたと云ふことも認められませうと思ひます。斯う云ふ統計は殆ど不可能であります。無論定家の假名遣で書くと云ふ人は物語類でも讀むとか、北村季吟などが作つた「湖月抄」とか、あゝ云ふ物でも讀んで居る人の上であつて、其外は矢張亂雜でありませう。又漢學の方に主もに力を入れる人は假名遣などは構はぬと云つて亂雜に安んじて居つたのでありませう。併し是等が多數のものに行はれないと云ふのは教育の方向、若《もしく》は其の普及の程度に依つて定まるのではないかと思はれるのであります。そこで假名遣を排斥すると云ふことは極く最近に起つて參りました。斯う云ふ運動にも例の陳勝呉廣《ちんしやうごくわう》のやうなものが早く前からあるのであります。既に南朝の藤原長親《ふぢはらのながちか》即ち明魏《みやうぎ》法師も假名は心の儘《まゝ》に書けと云ふことを云つて居ります。それから極く近くなりますと、澤山さう云ふ例があります。漢學者の帆足萬里先生、彼の人は嘉永五年に歿しました。彼の人の「假字考」と云ふものに斯う云ふことが書いてあります。「今の世の假名遣と云ふものは正理あるものにあらず、久しく用ゐなれぬれば、強《しひ》て破らんも好からぬ業なるべし、其の掟《おきて》にたがひたりとてあながちに病むべからず」是れは許容説の元祖とも言へませう。それから井上文雄と云ふ先生があります。明治四年に歿しましたが、此の人の「假字一新」と云ふ本があります。是れも假名は心の儘に書けと云ふのであつて、復古の假名遣を排斥しまして、却《かへ》つて定家の方に荷擔《かたん》して居ります。それから井上|毅《こはし》先生の字音假名遣のこと、是れは當局が此席でも御引用になつて居る。斯う云ふやうな沿革を經て來て、さうして今日の假名遣改正の問題が出て參りまして、頗る堅牢《けんらう》な性質の運動になつて來たやうに思ひます。先づ斯う云ふ沿革だと自分は思つて居ります。
是れから少しく自分の意見を述べようと思ひます。最も私が感歎して聞きましたのは大槻博士の御演説でありました。引證の廣いことは固《もと》より、總て御論の熱心なる所、丁度彼の伊太利の Renaissance 時代の Savonarola の説教でも聽いたやうな感がしました。私は尊敬して聽きました。併し其の御説には同意はしませぬ。少數者の用ゐるものは餘り論ずるに足らない、多數の人民に使はれるものでなければならぬと云ふのが御論の土臺になつて居ります。併し何事でもさう云ふ風に觀察すると云ふと、恐《おそら》くは偏頗《へんぱ》になりはすまいかと思ふのであります。政治で言つて見ても多數に依れば Demokratie 少數ならば Aristokratie と云ふ者が出て來ます。此の頃の思想界に於て多數の方から、多數の方に偏して考へますると云ふと、社會説などもそれであります。それから之れに反動して極く少數のものを根據にして主張する Nietzsche の議論などもある。之れに據ると多數人民と云ふものは芥溜《ごみため》の肥料のやうなものである、其中
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