たものである。假名遣も同樣である。併し文語になつてから初めて言語は完全になる。言語が思想を十分に表はすと云ふことが初めて文語になつてから完全になる。假名遣は其の文語の方の法則である。若し我邦の假名遣が廣く人民間に行はれて居なかつたならば、それは教育が遍《あまね》く行はれて居らぬ爲めであらうと思ふのであります。そこで丁度昔初めて假名が出來たときに、それを使ふことを當時の政府が人民一般に施し得た如く、今日の文部大臣が假名遣を一般に教へられると云ふことは正當なる權利と思ふ。權利ではない、義務である。教へなければならぬのであると思ふ。之に反して文部大臣を始め教育の任に當つて居るものは、間違つたことを、正則に背《そむ》いたことをしてはならぬかと思ふ。昔の話に羅馬《ロオマ》の Tiberius 帝が或る時話をして語格を間違へた。さうすると傍に聽いて居た Marcellus と云ふ人が、今のは違つて居ると批難して云つた。さうすると Capito と云ふ人が聽いて居つて、帝王の口から出た言葉は立派な拉甸《ラテン》語であると斯う云ひました。さうすると Marcellus の云ふには、成程帝王は人民に羅馬の公民權を與へることは出來よう、併し新しい言語を作ることは出來ない。斯う云つたと云ふ。正則に反いたことをすると云ふ權能は帝王と雖《いへ》どもない。これが必要不必要の論であります。
併しながら必要不必要の論の外にもう一つ論があります。假名遣を國民一般に行はうと云ふことは不可能であると云ふ論があります。此の方の側は大槻博士の御論の中にありました。其の中の最も有力なる論據として仰しやるには、斯うして委員が大勢居るけれども委員の中で一人でも假名遣を間違へないものはないと云ふのでありました。實に其の通りでありまして、自分なども終始間違へますけれども、間違つて居ても、間違つたことは人に聽いて訂して行かう、子供にでも間違つて居ないことを教へてやつて、少しでも正則の方に向けようと云ふことを考へて居るのであります。當局に於ては不可能とまでは申されませぬけれども、困難だと云ふことは申されてあります。是れは一般にさう言つて居ります。困難となれば程度問題であつて、不可能ではないのであります。現に當局に於ては假名遣にも人の意識に入つて居る部分と意識に入つて居ない部分とがあると云ふことを言つて居られる。其の意識
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