とを勉《つと》めるようになった。予が久しく鴎外漁史という文字を署したことがなくて、福岡日日新聞社員にこれを拈出《ねんしゅつ》せられて一驚を喫したのもこれがためである。然《しか》るに昨年の暮に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《およ》んで、一社員はまた予をおとずれて、この新年の新刊のために何か書けと曰《い》うた。その時の話に、敢《あえ》て注文するではないが、今の文壇の評を書いてくれたなら、最も嬉《うれ》しかろうと云うことであった。何か書けが既に重荷であるに、文壇の事を書けはいよいよむずかしい。新聞に従事して居る程の人は固《もと》より知って居られるであろうが、今の分業の世の中では、批評というものは一の職業であって、能評の功を成就せんと欲するには、始終その所評の境界に接して居ねばならぬ、否身をその境界に置いて居ねばならぬものだ。文壇とは何であるか。今国内に現行している文章の作者がこれを形《かたちづく》って居るのであろう。予の居る所の地は、縦令《たとい》予が同情を九州に寄することがいかに深からんも、西僻《せいへき》の陬邑《すうゆう》には違あるまい。予は僅に二三の京阪の新聞紙
前へ 次へ
全16ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング