れたものだ。それは丁度雑りものの賤金属《せんきんぞく》たる鴎外が鋳潰《いつぶ》されたと同じ時であった。さて今の文壇になってからは、宙外の如き抱月の如き鏡花の如き、予はただその作のある段に多少の才思があるのを認めたばかりで、過言ながらほとんど一の完璧《かんぺき》をも見ない。新文学士の作に至っては、またまた過言ながら一の局部の妙をだに認めたことが無い。予は是《ここ》において将《まさ》に自ら予が我分身の鴎外と共に死んで、新しい時代の新しい文学を味わうことを得ないようになったかを疑わんとするに至った。然るにここに幸なるは、一事の我趣味の猶依然たることを証するに足るものがある。それは何であるか。予は我読書癖の旧に依るがために、欧羅巴の新しい作と評とを読んで居る。予は近くは独逸《ドイツ》のゲルハルト・ハウプトマンの沈鐘を読んだ。そして予はこの好処の我を動かすことが、昔前人の好著を読んだ時と違わぬことを知った。鴎外は殺されても、予は決して死んでは居ない。予は敢《あえ》て言う。希臘《ギリシャ》語に「エピゴノイ」ということがある。猶此に末流と云うがごとしだ。新文学士諸家も、これと袂《たもと》を聯《つら》
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