殺した。又一匹の子猿がその雌猿の乳房を含んでゐたのを引き放した。子猿は啼いた。そのヒヨオ/\/\と云ふ声が聞く人の胸に響いた。子猿は母猿の死骸に捜《さぐ》り寄つて、その手や口の冷えてゐるのに触れてヒヨウ/\/\と啼き続けた。この所の記事は実に読むに忍びない。試《こゝろみ》に人間の子が母親の乳を含んでゐる時、シンパンジイが来てその母親を殺したと思へ。我等は必ずや「ひどい獣だ」と罵るであらう。人間はどうかすると実にひどい獣になる。これに反してシンパンジイは老年になつて意地が悪くなる事もあるが、大抵気が優しくて、子供を愛してゐる。
 己はいつか昔一しよに住つてゐて、黒パンを分けて食つた子猿の話をした事がある。ジユヂツク夫人はリユウ・ド・ラ・フイデリテエに住んでゐた頃、この猿を知つてゐた。外へ出た序《ついで》にリユウ・ド・パラヂイ・ポアソンニエエルに立ち寄つて、このリツトル・ジヤツクと云ふ子猿に砂糖を一切れづゝくれて行つた。ジヤツクもあの女藝術家をひどく好いてゐた。一体動物は人間に対してひどく好き嫌ひがある。人間のちよつとした科《しぐさ》を見て、直《すぐ》に敵にすることがある。この子猿を人がハアヴルから連れて来た時、己は丁度ソフアの上に寝てゐた。それを覚えてゐて、ジヤツクは己を見ると直ぐに寝て見せる。そして笑ふ。どの猿でも笑はないのはない。小声で笑ふので人が心付かずにゐても、笑ふ事はきつと笑ふ。兎に角笑ふと云ふ事が人間の専有ではない。
 エヅアアル・ロツクロアはきつとまだ覚えてゐるだらう。なぜと云ふに、あの男は物を忘れると云ふことがないからである。あの男がリユウ・ド・ヲシントンに住つてゐる時、猿を飼つてゐた。或る日曜日に己達はその家で、窓を開けて昼の食事をしてゐた。その時窓のムウルヂングの上に蹲つてゐた猿は、何か旨い物を貰はれさうなものだと思つて待つてゐるらしかつた。それが突然食卓から目を放して中庭を見下した。そして非常に早くロツクロアの読み書きをする机の上に飛び上がつて、インクの瀋《にじ》んだのを吸ひ取る沙《すな》が、皿に盛つてあるのを取つて、又非常に早く窓に帰つて、その皿の中の沙を、丁度中庭を通つてゐた誰やらに蒔き掛けた。そして窓のムウルヂングの上に蹲つて、己達の方を見て満足らしい表情をした。一種の笑と看做《みな》される表情である。さも嬉しげで、それに人を馬鹿にしたやう
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