》、父主水正」がある。即ち此人であらう。
系図に政成が闕けてゐて稍不明であるが、要するに旗本伊沢は正保中には鷹匠町、延宝以後には鼠穴に住んでゐて、千五百五十三石より三千八百石に至つた。
その四
蘭軒の高祖有信が旗本伊沢の家から分れて出た時の事は、蘭軒の姉|幾勢《きせ》の話を、蘭軒の外舅《しうと》飯田休庵が聞いたものとして伝へられてゐる。それはかうである。有信は旗本伊沢の家に妾腹の子として生れた。然るに父の正室が妾を嫉《にく》んで、害を赤子《せきし》に加へようとした。有信の乳母《にゆうぼ》が懼《おそ》れて、幼い有信を抱いて麻布|長谷寺《ちやうこくじ》に逃げ匿《かく》れた。当時長谷寺には乳母の叔父《しゆくふ》が住持をしてゐたのだと云ふ。乳母の戒名は妙輪院清芳光桂大姉である。
有信の生れたのは天和元年だと伝へられてゐる。此時旗本伊沢の家は奈何《いか》なる状況の下にあつたか。
当主は初代正重より四代目の吉兵衛正久であつた。江戸鑑を検するに、襲家の後寄合になつて、三千八百石を食み、鼠穴に住んでゐた。有信が鼠穴住寄合伊沢主水正の家に生れたことは確実である。
有信が生れた時、
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