いた文の前に、猶「春以来御入湯いかゞ」の句もある。後年の自記に、阿部家に願つて、「湯島天神下|薬湯《やくたう》へ三|廻《めぐり》罷越《まかりこす》」と云ふことが度々ある。此入湯の習慣さへ既に此時よりあつたものと見える。介抱人がなくてはならなかつた所以《ゆゑん》であらう。
書中の手足痛《しゆそくつう》に悩む「荊妻」は、茶山の継室|門田《もんでん》氏、菅三は仲弟猶右衛門の子要助の子三郎|維繩《ゐじよう》で、茶山の養嗣子である。
その二十九
此年文化二年十月二十四日に、蘭軒は孝経一部を手写した。二子常三郎の生れたのは此日である。孝経の末《すゑ》に下《しも》の文がある。「文化乙丑小春廿四日、据毛本鈔矣、斯日巳刻児生、其外祖父飯田翁(自註、名信方、字休庵)与名曰常三郎、恬。」常三郎は後父に先《さきだ》つこと四十五日にして早世する、不幸なる子である。
頼家に於て山陽が謹慎を免され、門外に出ることゝなつたのは、此年五月九日である。
此年蘭軒は二十九歳、妻益は二十三歳であつた。蘭軒の二親《ふたおや》六十二歳の信階、五十六歳の曾能《その》も猶倶に生存してゐたのである。
文化三年は
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