于京師。愛其地之佳麗雄勝。遂寓居于東洞院。」実は瑞仙の東洞院に住んだのは、四年壬子の後三年の事である。
八年は瑞仙が江戸の召命を受けた年である。痘科《とうくわ》を以て立たうと志した平生の望は此に遂げられた。時に年六十一であつた。書上《かきあげ》に拠るに、幕府の命は十二月二十六日に京都所司代に由つて伝へられたのである。初め池田氏の戴氏《たいし》に承けた痘科は、瑞仙も玄俊も共にこれを伝習してゐた。そして瑞仙が此に由つて立たうと志したがために、玄俊は痘科を棄てゝ顧みなかつたのださうである。京水の記にかう云つてある。「信郷大方科を業として、兼て痘科を修たれども、兄善郷専ら痘科を業とするに及て、自ら譲て偏に大方を修む。」
九年は瑞仙入府の年である。書上に拠るに、瑞仙は正月三日に京都を発し、十三日に江戸に著した。その寄合医師を命ぜられ、高《たか》二百俵を受けたのは三月五日である。此時瑞仙が京都に留めて置いた家族は、独り養子祐二のみではなかつた。瑞仙には妻があつたらしい。
此事は三世瑞仙の先祖書初代瑞仙の条に削り去られてゐて、京水の写し伝へた庚申書上に見えてゐる。「同年(寛政九年)五月廿一日、
前へ
次へ
全1133ページ中712ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング