殿御書附を以て被仰渡候。此実は先人御死去之後なり。実は同月六日死。」此文化丙子九月六日の歿日は霧渓も亦正しく書してゐる。しかし年「八十三」は誤である。享保生とすれば八十二、正説元文生とすれば八十一である。
 要するに錦橋書上の原文に従へば、年次と錦橋の年齢とは一も符合せぬのである。霧渓撰行状中その偶《たま/\》符合してゐるのは、享保乙卯生と云ふことと、宝暦壬午二十八歳と云ふこととの二である。そして此乙卯と壬午とは錦橋が書せずして、霧渓が始て書したものである。

     その二百二十五

 池田京水自筆の巻物はわたくしの新に獲た資料である。わたくしは此に由つて痘科池田氏累世の事蹟を覆検し、錦橋初代瑞仙の死に至つた。
 錦橋の妻の事は書上《かきあげ》に見えない。養嗣子霧渓撰の行状に至つて、始て「君在于京師時、娶佐井氏、而無子」と云つてある。霧渓の子|直温《ちよくをん》の繕写《ぜんしや》した過去帖には「芳松院殿緑峰貞操大姉、同人(初代瑞仙)妻、佐井氏、実菱谷氏女、嘉永元戊申年十二月六日卒、葬于同寺(嶺松寺)」と書してある。名は後に引くべき京水の文に沢と書してある。
 錦橋の京都に入つた年を
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