を学んだ。書上に詮応を「叔父」と称してある。系図錦橋本に従へば、詮応は嵩山《すうざん》の孫である。京水本に従へば信重の女《ぢよ》、溝挾《みぞはさ》氏室に瀬兵衛某と信之《のぶゆき》との二子があり、信之に信吉《のぶよし》と詮応との二子があつた。即ち信重の曾孫、錦橋の従祖父である。
 錦橋は書上に拠るに、二十歳にして桑原玄仲に雑病の治術を受けた。二十歳は宝暦五年である。しかし前の「八歳」の誤を承《う》け来つたとすると、宝暦四年十九歳の時となるであらう。
 錦橋は書上に拠るに、二十八歳にして母と共に安藝国に往つた。行状に此を宝暦十二年壬午の事としてゐる。享保二十年生として推算したものである。前例に従つて訂正すれば、宝暦十二年二十七歳の時の事となる。
 錦橋は安藝より大坂に移つた。書上は此を「寛延三庚午年」としてゐる。非常なるアナクロニスムである。京水が「按此年善郷年十五なり、未郷里を離ざるの前にあり、恐くは年号書損あるべし」と註した。養子|霧渓《むけい》は行状に「安永丁酉冬(中略)年四十」と書した。何の拠《よりどころ》あつての事か不詳である。安永六年丁酉に錦橋は、享保二十年生として四十三、正説
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