り》を訂した寛政初年の秋であつただらう。同じく舟を椋湖に泛べた緇素《しそ》とは誰々か。わたくしは茶山集の初編を披《ひら》いて検した。寛政六年甲寅の中秋に、七絶三首があつて、引に「中秋与六如上人、蠣崎公子、伴蒿蹊、橘恵風、大原雲卿、同泛舟椋湖」と云つてある。前《さき》にわたくしは壬午「憶昔三章」の詩中「十一年後忽此歓」の句より推して、波響茶山の交を寛政五年に始まるとなしたが、実は六年であつた。甲子の再会は十一年後ではなくて、実は十年後であつた。
同遊六人の僧俗中先づ死んだのは六如《りくによ》である。享和元年三月十日に寂したから、二十四年前である。次は所謂|橘恵風《きつけいふう》である。宮川|春暉《しゆんき》、字《あざな》は恵風、橘姓、南谿と号した。歿日文化二年四月十日は二十年前である。次は文化三年七月二十六日に歿した伴蒿蹊《ばんかうけい》で、十九年前である。次は同七年五月十八日に歿した大原|呑響《どんきやう》で、十五年前である。「如今独君在、余子尽墳塋。」
以上記し畢つた後、寛政甲寅の遊には猶二人の同行者があつたことを知り得た。即ち米子虎《べいしこ》、松孟執《しようまうしふ》である。
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