した。それが適斎の命であつた。適斎は嵯峨生活の徒食に慊《あきたら》なかつたらしい。其文に云く。「賢父母在堂。君(霞亭)因其命。今教授於京師。」
跋が又わたくしに霞亭の母の事をも教へる。父適斎は四年の後七十の賀筵を開く人で、此年六十六歳であつた。しかし母の猶堂にあつたことは、此文に由つて知ることが出来た。
此年十二月に霞亭は凹巷の書を得て、明年共に吉野に遊ばむことを約した。
霞亭は文化十年二月二十三日に関宿に赴いた。凹巷を迎へて共に吉野に遊ばむがためである。これが三十四歳の春である。備後に往く年の春である。
吉野の遊の成立《なりたち》を明にせむがために、わたくしは先づ游稿の文を節録する。「壬申臘月。河崎敬軒赴東府。帰期及花時。因約芳野之遊。時北条霞亭寓洛。余請明年二月会我于関駅。癸酉二月十九日。余拉佐藤子文発。枉路于北勢。廿二日到桑名駅。※[#「日+甫」、第3水準1−85−29]時敬軒果至。廿三日発桑名。宿于亀山。廿四日到関駅。霞亭以前夕至。」凹巷は佐藤|子文《しぶん》と二月十九日に伊勢を発し、二十二日に桑名に於て敬軒と会し、二十四日に関宿に於て霞亭と会した。一行は霞亭、凹巷、敬
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