条を改めて北と云ひ、又喜多とも書した。山陽は「曾祖道益、祖道可、考道有、皆隠医本邑」と書してゐる。要するに曾祖以後は皆的屋の医であつた。道益の弟僧了普は三箇所村|棲雲庵《せいうんあん》に住んで、寛保三年某月二十六日に寂した。然るに此了普と僧真栄との事蹟が混淆して辨じ難くなつてゐる。西村は「栄普二公、其跡迷離」と云つてゐる。唯真栄は享保七年九月七日に寂して、北岡に碑があり、了普は棲雲庵に碑がある。西村は「的是両人」と断じ、「或疑了普学書於真栄、以其善書、世亦直称無量寺也歟」と追記してゐる。越坂《をつさか》の無量寺は真栄終焉の地である。
霞亭の父道有は適斎と号した。山陽は「娶中村氏、生六男四女」と云つてゐる。帰省詩嚢を見れば、適斎は文化十三年丙子に七十の寿宴を開いた。神辺《かんなべ》から帰つて宴に列つた霞亭は、「三弟及一妹、次第侍厳慈」と云つてゐる。寿を献じたものは長子霞亭以下の男子四人と女子一人とであつた。霞亭の弟の中維長立敬は適斎の継嗣である。山陽は「以次子立敬承家」と云つてゐる。
霞亭は安永九年に生れた。適斎が三十四歳にしてまうけた嫡男である。
霞亭は幼《いとけな》かつた時の家
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