つたものか、或は蘭軒に贈つたものか、不明である。何故と云ふに、此条と前の下地の条との間には空白を存ぜず、只行を更めてあるのみで、次の矢代太郎の事は特に行を隔てて記してあるからである。
 華蓙の産地は沼隈郡山南《ぬまくまごほりさんな》である。此郡と御調郡《みつきごほり》とが御荘蓙《みしやうござ》を産する。所謂備後表である。茶山は山南の地名に特に傍訓を附してゐる。

     その百三十四

 屋代|弘賢《ひろかた》は此年癸未の武鑑に「奥祐筆所詰、勘定格、百五十俵高、神田明神下、屋代太郎」と記してある。年は六十六であつた。弘賢は前年壬午に豊後の人田辺|主計《かぞへ》に書を与へた時、田辺をして菅茶山の起居を問はしめた。又同じ年に茶山は歌を弘賢に贈つた。茶山の書牘には「去年か」と書し、又「前年」と書してあつて、思ひ出づるまに/\筆を下した痕が見える。茶山は屋代を矢代に作つてゐる。
 名村新八は長崎の人で、壬午に神辺を経て江戸に来た。此人が江戸にあつて何事をなしたかは、書を作つた茶山も知らなかつた。「之子いかなる用事に候哉」と疑つてある。
 最後に茶山の書牘には大田南畝が出でてゐる。既に「大田之
前へ 次へ
全1133ページ中435ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング