を以て阿部家に仕へたものであることは、詩が既に自ら語つてゐる。
 しかしわたくしは圭輔の事を今少し精《くは》しく知りたく思つた。菅茶山の集には鈴圭輔《れいけいほ》と書してある。渡辺修次郎さんの阿部正弘事蹟には、「正精《まさきよ》の時、村上清次郎、菅太仲、鈴木圭輔、北条譲四郎(中略)皆藩の儒員たり」と記してある。只それだけである。わたくしは浜野知三郎さんを煩はして検してもらつた。
 鈴木圭、字《あざな》は君璧《くんへき》、宜山《ぎざん》と号した。通称は初め圭雲、中ごろ圭輔、後徳輔である。天明八年「儒医之場へ被召出、弘道館学術世話取並御屋形御講釈、」寛政二年「御医師本科、」七年「眼科兼、」十年「儒医、」享和二年「上下格《かみしもかく》御儒者、」文化六年「奥詰、」十年「御使番格、」文政二年「江戸在番、」三年「大御目付被仰付、奥詰並御家中学問世話是迄之通、」七年「御儒者、」十年「奥詰、」天保二年「江戸在番、」以上が官歴の略である。
 圭輔の召し出されたのは天明八年、茶山は寛政四年である。府志の編纂、阿部神社の造営は、二人が共に勤めた。
 圭輔は江戸在番を命ぜらるること二度であつた。初は文政二年
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